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吉羅の車が停まったのは、有名な高級ブティック街だった。 これには香穂子も驚いてしまう。 「こんなところのドレスって、ものすごく高いんじゃないですかっ!?」 「そんなに心配しなくても大丈夫だ。私は先行投資と思っているからね。リスクのないチャンスは転がってはいないよ。お嬢さん」 「…はい…」 香穂子はほんの少しだけ胸が痛くなる。 リスクのあるチャンスということなのだろうか。 きっとヴァイオリニストとしてはまだまだ未知数である香穂子は、吉羅にとってはハイリスクには違いない。 期待はしてくれている。 それだけは嬉しかった。 高級ブランドのブティックに入り、今まで着たことがないような大人びたドレスが選ばれる。 清楚なカラーではあるので、とても清らかな艶が出るスタイルになった。 同時に高そうなネックレスがコーディネートされて、香穂子は目を剥いた。 「流石にこれは…」 「それはこのブランドに預かって貰っているものだから心配しなくて良い。私の母親のもので、着けなくなったから預けてあるんだよ」 「…だけど…そんな大切なものを…」 吉羅の母親の大切なものだと知って、香穂子は益々恐縮してしまう。 「君に似合うと思うがね」 「そんな大事なものを貸して頂いて、有り難うございます」 香穂子はネックレスの豪華な気品に目が眩んでしまいそうになった。 靴も選び抜かれた高級ブランドのものが選択され、香穂子は着せ替え人形にでもなったような気分だった。 「日野君、こちらの荷物は、会場ホテルの美容室に預けておくから、当日は少し早くホテルにきたまえ。メイク等は総てやってくれるそうだから」 「有り難うございます」 香穂子は再度頭を下げる。 ヴァイオリンを弾ける機会を与えてくれるだけでも嬉しいのに、こんなにもきちんと準備をしてくれる。 その気遣いが涙が出るぐらいに嬉しい。 「これで準備は完了だな。日野君、これから少し時間はあるかね?」 「掃除の仕事がないので、大丈夫です」 「そうか。だったら食事に行かないか?」 吉羅に食事の誘いを受けたら、受けなければ損だろうと香穂子は思う。 こんなにも香穂子のことを考えてくれるハイクラスの男はいないだろうから。 これからも吉羅以上にロマンティックな男は、現れないのではないかと香穂子は思った。 だからこれは貴重な経験だ。 これ以上の経験はきっと出来ないだろうから。 「嬉しいです。是非、お願いします」 「では行こうか。この近くに旨いフレンチレストランがあってね、そこに行こうか」 「有り難うございます。嬉しいです」 香穂子がにっこりと笑うと、吉羅は頷いてくれた。 自分とは住む世界が違う人々が行き来する通りを、香穂子は吉羅の背中を追って歩いていく。 何だか萎縮してしまう。 どんどん自分がちっぽけな存在になってしまうような気がして、ほんの少しばかり切なかった。 「…あっ…!」 一方的に肩をぶつけられて、香穂子は思わずよろけてしまう。 躓きそうになったところで、逞しい手に腕を取られた。 「大丈夫かね?」 「大丈夫です。…平気ですから…」 香穂子が掠れた声で言うと、吉羅は睨むような厳しい視線を向けてきた。 「…日野君…、君は本当にきちんと食事をしているのかね? 今すぐにでも折れてしまいそうな華奢な躰をしている」 「…食べてはいます。生きることが出来るぐらいには…」 香穂子は言葉を濁すと、凜と背筋を伸ばして立とうとした。だが、吉羅はそれを許さないかのように、腕に力を込める。 男らしい力の強さに、香穂子は思わず吉羅を見上げた。 今の吉羅からは、苦しい程に男を感じてしまう。 このまま呼吸困難になってしまうぐらいにときめいてしまう。 吉羅は香穂子の手をそのまま握り締めると、強く引っ張っていく。 強引なのに何処か優しさを感じてしまう。 吉羅の力強さに身を任せながら、香穂子はうっとりとした気分に浸っていた。 吉羅が連れてきてくれたところは、いかにも高級レストランな店で、外国人アーティストのアンサンブル演奏が聴くことが出来る場所だった。 「…さあ、ここなら上質な音楽も楽しむことが出来るからね」 「有り難うございます」 香穂子は吉羅にリードされるがままに、レストランの中に入っていく。 まるでお姫様にでもなった気分になる。 吉羅にエスコートされて席に着くと、甘い緊張でどうにかなりそうになっていた。 「日野君、何か食べたいコースやものはあるかね?」 「よく分かりませんから、吉羅さんにお任せします」 「解った。飲み物は…、アルコールは大丈夫だったかね?」 「ギリギリ駄目な年齢なんです。だからスパーリングウォーターで構いません」 「じゃあ私もそうしよう」 吉羅は直ぐにスタッフを呼ぶと、料理と飲み物を注文してくれた。 いざ料理が運ばれてくると、香穂子はどうして良いのか分からなくなってしまう。 本格的なフレンチのフルコースなんて、香穂子には食べたことなどなかったのだから。 途方に暮れたように皿を見つめていると、吉羅は気付いたように頷いてくれた。 「私の真似をしてくれたら良いから」 「あ、有り難うございます」 吉羅のさり気ない気遣いに感謝しながら、香穂子は吉羅を見ながら、見よう見まねでやってみる。 「…本当に有り難うございます…。嬉しいです。こうして気遣って下さって」 「君もプロのヴァイオリニストを目指すのならば、これぐらいのマナーはマスターしておいたほうが良いだろう。覚えておきたまえ」 「はい。有り難うございます」 香穂子は頬を染めながら、本当に嬉しくて笑顔で吉羅を見つめた。 吉羅はスマートなマナーで食事をする。余りにも綺麗で、香穂子は思わず見惚れてしまう。 「吉羅さんのマナーを見ていると勉強になります。本当に」 香穂子が頬を染めながら言えば、吉羅はフッと笑った。 「吉羅さん、どうしてここまでよくして下さるんですか?」 香穂子が率直に言うと、吉羅はふと睫毛を落した。 「…どうしてだろうね…」 低いその声が、総てを表しているような気がしてならなかった。 食事が終わり、吉羅とふたりで駐車場まで歩いていく。 「家はどちらだね?」 「石川町です。楽器と楽譜を扱うお店で住み込みで働かせて貰っています。ご主人夫婦がとてもよくして下さいます」 「…そうか。それは安心したよ」 吉羅はフッと静かな甘いまなざしになると、石川町に向かってハンドルを切った。 香穂子のナビゲーションで、吉羅は車を走らせる。 石川町までなんて本当に息が呑むまでの時間だ。 特に吉羅と一緒にいると、そう感じられてしまう。 「その楽器店です」 「解った」 楽器店の前に着いてしまい、香穂子は喪失の溜め息を吐く。 「有り難うございました」 丁寧に礼を言うと、吉羅はいつものクールな表情のままで香穂子を見る。 「こちらこそ。また明日」 「…はい。…また、明日…」 香穂子はうっとりとしながら呟くと、吉羅の車が走り去るのを見送る。 また明日。 その甘い約束が、香穂子を幸せな気分にさせてくれる。 こんな幸運やってくるとは思わなかった。 この幸運に感謝しながら、香穂子は楽器店へと入っていく。 ここの楽器店の夫婦と吉羅には感謝してもしきれないと思いながら、香穂子は窓から見える月を見上げた。 |