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翌日から、香穂子は吉羅のいる役員室でひたすらヴァイオリンの練習を行なう。 財界のパーティだなんて大きな舞台だから、失敗しないようにと完成度を高めなければならない。 香穂子は吉羅に挨拶をそこそこに、練習に集中し始めた。 どうしてこんなにも日野香穂子が気になるのかが解らない。 今までに付き合ったことのないタイプだからだろうか。 それとも、あの真っ直ぐで前向きな姿勢が美しいからだろうか。 確かに、あれだけの逆境でも挫けずに頑張っているのは素晴らしいことだ。 こうして必要以上に香穂子を構ってしまうのは、何かがあるに違いない。 吉羅はそのようなことをぼんやりと考えてみる。 そこで甘い思考をストップさせた。 日野香穂子は、社の機密漏洩のことで、何か知っているのかもしれないのだから。 役員室を掃除していた人物なのだから、疑わなければならない。 だが疑うことなんて出来ないほどに、あの瞳に惹かれているのは事実だ。 そんなことは戯言に過ぎないと思いながら、吉羅は仕事に集中することにした。 だが、扉ひとつを隔てて香穂子がヴァイオリンを練習していると思うだけで、甘く苦しい幸せがこころを支配する。 苦しいのに幸せだなんて、このような感情は今まで経験したことがなかった。 ふと吉羅は足下に置いているモニターを見つめる。 機密漏洩に関わっているならば、何かしらのアクションを起こそうとするか見極める為に、吉羅は部屋に監視カメラを設置していた。 それをじっと見つめながら、吉羅は香穂子がヴァイオリンに夢中である姿を確認する。 こんなに熱心なのに、機密漏洩の手助けをする訳はないだろうと、吉羅は思っていた。 ヴァイオリンに夢中になり過ぎて、香穂子は時間が過ぎていることすらも気付かなかった。 ノックが部屋に鳴り響き、香穂子はヴァイオリンを置いてドアを開ける。 「吉羅CEO」 「…日野君、少し休憩しないかね? そんなに根を詰めても躰に悪い」 「はい。有り難うございます」 香穂子はにっこりと笑うと、吉羅に強く頷いた。 吉羅の仕事スペースには、今日は美味しそうなサンドイッチが並べられていた。 「いつも有り難うございます。嬉しいです」 香穂子はにっこりと笑いながら、サンドイッチに手を伸ばす。 「本当に美味しいですね。いつも満足しています」 「それは良かった」 「後もう少しだけ頑張れる気がします」 香穂子がにっこりと笑って言うと、吉羅も返事をするかのように微笑んでくれる。 香穂子にはそれが嬉しくてしょうがない。 他愛ない話をしながらサンドイッチを片手に楽しい時間を過ごした。 休憩を終えると、吉羅は香穂子を呼び止める。 「日野君、ヴァイオリンを奏でてはくれないかね」 「はい。喜んで」 吉羅のリクエストに、香穂子は笑顔で応えると、ヴァイオリンを奏で始めた。 今日は“優しき愛”。 吉羅に聴かせたいと思う曲は、総て愛をテーマにしたものだ。 香穂子はほんのりと甘い気持ちを滲ませながら、ヴァイオリンを奏でた。 奏で終わると、吉羅は大きく拍手をしてくれる。 「なかなかだ。これだとパーティは期待させて貰って良いだろうね」 「ご期待に添えるように頑張りますね」 「ああ」 「練習に戻ります」 香穂子は吉羅に頭を下げると、再び部屋に籠って練習を始める。 もう少し完成度を高めなければならない。 吉羅に喜んで貰えるように精一杯頑張ろうと、香穂子は強く誓っていた。 とうとうパーティの当日。 香穂子は緊張気味にホテルに向かって歩いていた。 楽器店の老夫婦には、「初めての大舞台だから頑張ってね」と励まされ、香穂子は強く頷いた。 最も緊張し過ぎてしまい、香穂子は眉間に皺を深く刻んでいたのだが。 吉羅に言われたサロンに緊張気味な顔で顔を出すと、女性スタッフが心地好く出迎えてくれた。 ヘアスタイルを整えてメイクをしてくれるのだろうと想像は出来たが、エステやシェイビングまでついていた。 「綺麗になって頂くんですからね。当然ですよ」 と言われて、香穂子は恐縮ばかりしてしまった。 「お肌が綺麗だから、余り時間を掛けずにエステが出来そうですよ。ご指定頂いた時間には、充分間に合うと思いますよ」 「はい。有り難うございます」 エステを受けたことも、美容室で髪をセットして貰ったことも今まで経験がなかったせいか、香穂子は緊張しながら綺麗にして貰う。 流石は吉羅が手配してくれた美容のプロだ。魔法使いのような指先使いで、香穂子を美しくしてくれた。 「綺麗な髪をされていますね。まとめやすいわ」 「有り難うございます」 褒められたのも初めてで、香穂子はほんのりと顔を赤らめた。 「…紫の上。超青田買いかな」 少し高いトーンの男性の声が響いて、香穂子は思わず顔を上げる。 「仕上げは僕がやるよ。吉羅とは学生時代からの友人でね。あのポーカーフェースを崩してやるぐらいに綺麗にしてあげるよ」 「あ、有り難うございます」 いかにも美容関係だというのが分かる雰囲気の男性で、腕も誰よりも確かなのが解る。 「え? クリームファンデーションだけで仕上げたの? コンシーラーなし? 」 先ほどまでファンデーションを塗ってくれていた女性に確認して、男は驚いている。 「綺麗な肌してるね。暁彦が“紫の上”にするだけのことはあるんだ」 「そんなことは…」 「謙遜しないで。今からあの男の鼻を明かすようなメイクの仕上げをするから楽しみにね」 男は早口で言うと、手早く香穂子を仕上げていく。 本当に綺麗に仕上げてくれるものだから、香穂子は驚く。 先ほどの女性も魔法使いだと思ったが、この男は更に上を行くと思った。 「はい、おしまい。ヘアスタイルもこんな感じがセクシーだね」 鏡を見せられた瞬間、香穂子は驚く余りに息を呑む。 先ほどで充分に綺麗にして貰ったと思っていたのに、その上をいく神業だ。 「柔らかいのに凜とした雰囲気を出したよ。ブロンザーで影をつけて、パールの入ったリキッドアイカラーを入れているんだよ。それにピンクグレーのシャドウを乗せてる。唇はベージュピンクの肌が美しく見えるリキッドのルージュ。このルージュは唇をふっくらさせてくれるから、とても綺麗に見えるよ。キスしたくなる唇がテーマだからね」 男の言葉に、香穂子はドキリとする。吉羅の酷薄な雰囲気の唇を思い浮かべて、香穂子は真っ赤になってしまった。 こんなにも綺麗な唇ならば、吉羅に誘惑して貰えるだろうか。 「このリキッドルージュは何処のですか?」 「プレゼントするよ。君に。使ってみると良いよ」 「有り難うございます」 まさかプレゼントをして貰えるとは思ってはいなかったから、香穂子は嬉しくてはにかむように目線を下げた。 「さてとドレスを着ておいで。スタッフが手伝うから。後は暁彦が来るねを待つだけだね」 「吉羅さんが見えるんですか?」 「君を会場まで案内してくれるらしいよ。しっかりね」 「有り難うございます」 香穂子は、吉羅に気に入って貰えるのかドキドキしながら、ドレスに着替えにいった。 ドレスを着て、最後に豪華なのに柔らかな気品があるネックレスを着けて完成だ。 香穂子がゆっくりとフィッティングルームから出ると、その前には吉羅が立っていた。 香穂子を見るなりクールな瞳を向けてくる。 「行こうか」 「はい」 吉羅の瞳が厳しく光るのを見て、香穂子は泣きそうになった。 |