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自分ではとても綺麗になったように思ったのに、吉羅にはそうでもないと映ったようだった。 いつも美しく女性がそばにいるだろう吉羅には、きっと“大したことはない”と映ったのだろう。 それが泣きそうになる。 「日野君、演奏の時間は、スピーチが終わり談笑が始まった後直ぐだ。頼んだ」 「はい」 吉羅がいつも以上にビジネスライクだったから、今にも泣き出しそうになる。 あくまで仕事上の関係だから、そんなにも落ち込むことはないというのに、奈落の底まで墜落したような気分になった。 総てを否定されたような気がする。 「日野君、演奏が終わったら、直ぐに私に声を掛けるように。良いね」 「はい」 吉羅は冷たい声で言うと、クールに香穂子を見つめた。 「服は直ぐに着替えて帰れるように支度が出来るよう、サロンの一室を用意している」 「はい、判りました」 演奏が終われば、帰れと言われたような気がした。 吉羅に声を掛けずに帰っても構わないだろうか。 そんなことを悶々と考えながら、香穂子は吉羅の後を歩いていった。 パーティ会場では、経済界の名士たちが多数参加して、賑っている。 香穂子ですらテレビや新聞で見たことのある経済人も多数いた。 スピーチが終わるタイミングをはかりながら、出番を待ち構えている。 ようやく長いスピーチが終わったところで、香穂子の出番になった。 誰もが談笑を始めてざわついてきた頃、ヴァイオリンを奏でる。 ただこころを込めて奏で始めた。 先程までかなりざわついていたと思っていたが、急に談笑が消える。 香穂子はそんなことは気にならないとばかりに、ただ自分の演奏だけに集中した。 演奏が終わり、頭を深々と下げると、会場中に拍手が鳴り響いた。 「良かったよ。久し振りに良い演奏を聴かせて貰いました」 初老の男性に声を掛けられて、香穂子が涙が滲んでしまうぐらいに嬉しくなる。 本当にこうしてダイレクトな反応を頂くのは嬉しかった。 「こちらこそ。聴いて頂いて有り難うございます」 香穂子が頭を深々と下げると、初老の男性は微笑んだ。 「良いものを聴かせて頂きました。有り難うございます」 男性は香穂子に笑い掛けた後で、ゆっくりと談笑の輪に紛れ込んでいった。 ひとりになり、香穂子は吉羅を探す。 するととてもに美しいひとと一緒に話しているのが見えた。 声を掛けるようにと言われたものの、それも憚られる。邪魔をしてはならないかもしれない。 香穂子は黙ってひとりで帰ろうと会場を出ようとした時だった。 「日野君」 低い声と共に、吉羅が非難するようなまなざしを向けてくる。 「声を掛けるように、と、言ったはずだが、聞いてはいなかったのかね?」 「…あ…。お忙しそうだったので…、先に帰ろうかと…。私のすべきことは終わりましたし…」 「まだ終わってはいない。来なさい」 吉羅は不機嫌そうに言うと、香穂子の腕を思い切り取って廊下に出た。 怒っている。かなり。 それも香穂子が想像出来ないほどに怒っているのが解る。 本当に泣きたくなる。 吉羅は香穂子を死角になるところに連れて行くと、いきなり抱き寄せてきた。 息が出来ないほどに緊張する。 だが抗うことなんて到底出来ない。 それどころか、吉羅にもっと強く抱き締めて欲しいとすら思ってしまう。 重症だと、香穂子は思った。 「…あっ…!」 いきなり吉羅の唇が項をかする。 触れられた瞬間、背中に電流が走り抜けた。 強く吸い上げられて、脚に力が入らなくなる。 そのまま心臓が飛び出してしまうのではないかと思ったところで、唇を離された。 「行こう」 腰を思い切り掴まれて、香穂子はよろよろと歩く。吉羅はといえば堂々と歩いていく。 香穂子は吉羅が醸し出す男らしさに目眩を覚えそうになっていた。 再び会場に戻っても、吉羅は香穂子の腰をきちんと抱いたままでいる。 美しく若い女性たちの視線が痛くて落ち着かない。恐らくは良家のお嬢様で、吉羅に憬れているのだろう。 「あ、あの…、離れたほうが良いのではないでしょうか?」 「離れるつもりはない。君には少し協力して欲しいことがあるしね」 「協力?」 「成功した暁には、今日のヴァイオリン演奏にプラスαの報酬を用意しよう」 「…吉羅さん…」 “報酬”。 なんて冷たい響きなのだろうかと、香穂子は思わずにはいられない。 そんなものよりももっと温かいものが、今の香穂子には必要だった。 吉羅が歩いていく先に、とても美しい女性がいた。気品に満ち溢れて、香穂子は跪きそうになってしまう。 「お綺麗な方ですね」 「帝都銀行総裁の娘だ。私と縁談話があり、総裁もあの娘も乗り気らしい。だが…私は乗り気じゃないんだ…」 吉羅は、あれほどまでに美しい人を否定している。 それが香穂子には驚くべきことだった。 「あんなに綺麗なのに…」 「そばにいるマスコットとしては申し分ないかもしれないが、そんな女性を私は余り興味がないものでね。だから諦めて貰うしかない。そこで君に手伝って貰う。私の恋人のふりをして欲しい」 「……!」 いきなりの申し出に、香穂子は全身を固まらせてしまう。 「そ、それは難しいのではないでしょうか…!?」 声を強張らせて戸惑って見せても、吉羅は平気なようだった。 「驚いている暇はないよ。さあ、行こうか」 吉羅は平然と香穂子を引き寄せると、ゆっくりと相手に近付いていった。 「こんばんは」 吉羅が低い声で話し掛ける。 香穂子が引きつった笑いを浮かべながらそばにいると、容赦ない攻撃のまなざしに晒された。 「彼女と私は、近々婚約する予定なんですよ」 吉羅の堂々とした嘘に、香穂子は余計に落ち着かなくなる。 「日野香穂子と申します。宜しくお願いします」 何とか挨拶をした後、先程の女性を見ると、もう悪意ある光は感じられなかった。 「…まあそれはおめでとうございます」 にっこりと微笑む姿は、まるで天使に思えた。 吉羅は香穂子の腰を抱いたまま、経済界についての話題を話している。 ほんのりと薫る官能的な吉羅の香りに酔い痴れながら、香穂子はぼんやりとしていた。 続いて吉羅に近付いて来たのは、息を呑むほどに美しい天使のような笑顔を持つ女性だった。 不意に横にいる吉羅を見上げると、初めて優しいまなざしになる。 なんて美しいのだろうかと思ってしまう。 吉羅が好きなのは彼女なのかもしれない。 そう思うと、急にどんよりとした気分になってしまった。 香穂子が気を遣って離れようとしたが、吉羅は意に介さないようで、余計に躰を密着させてくる。すると更に呼吸困難になってしまった。 「こんにちは、綺麗な方ですね」 「こちらは日野香穂子だ。日野君、こちらは光さん。私とは幼馴染みでね、今はお父上の会社を引き継いで頑張っておられる。経済的なアドバイスにも乗ってあげているんだ」 「宜しく、香穂子さん」 「よろしくお願いします」 先程の女性と違い、あからさまな悪意がないので正直ホッとしてしまう。 「またお話ししましょうね」 「はい」 とても印象が良くて、香穂子は温かい気分になった。 光との挨拶を終えて、息吐いた時だった。 光から厳しいまなざしが向けられる。 先程は日だまりのなかにいる天使のようなまなざしだったのに、今度は荒野を支配する悪魔や魔女にしか見えない。 背筋が凍り付いた。 |