*誘惑のゆくえ*


 パーティが終わり、吉羅の“恋人”のふりも、ヴァイオリニストとしての時間も終わりを告げる。
 それがほんの少しだけ寂しく感じた。
 ドレスを脱ぐ時間だ。
 同時に掛けられた魔法から解放される。
「今日はすまなかったね。助かった。ヴァイオリニストとしても、君の評価は高まったようだよ。出席者に君のヴァイオリンは好評だったからね」
「有り難うございます。嬉しいです」
 ヴァイオリンの評判が良かったというのは、香穂子にとっては何よりもの賞賛になる。
 嬉しくて堪らなくて、思わず笑顔がこぼれ落ちた。
「後…恋人のふりをさせてしまって申し訳なかった」
「いえ…」
 恋人のふり。
 その言葉がどれ程凶器になるのかということを、きっと吉羅は知らないだろう。
 これがリアルであったならばどれ程良かったのにと、香穂子が思わずにはいられなかったことを、きっと吉羅は知らないだろう。
「こちらこそ有り難うございました。…私、こんなに綺麗に着飾って貰えたのは生まれて初めてだったから、嬉しかったです」
 香穂子がはにかんだ笑顔で言った瞬間、不意に抱き寄せられた。
「…あ、あの…」
「日野君、時間はあるかね…?」
「少しぐらいは…」
「もう少しだけ、君と一緒にいたいが、構わないかね?」
 吉羅の声は何よりもの甘い凶器になる。これ程までに苦しいときめきを生む声は他にないのではないかと思う。
「…はい…。少しだけなら大丈夫です…」
「良かった。それでは、少しお茶でも出来る場所に移動しようか」
「…はい。有り難うございます…」
 香穂子が静かに頷くと、吉羅に腰を抱かれる。
 緊張した素振りを見てしまえば、吉羅は僅かに微笑んだ。
「緊張しているのかね?」
「想像にお任せします…」
 吉羅にこうして女として扱って貰えると、うっとりするような素敵な気分になれる。
 香穂子にはそれが何よりも嬉しかった。
 吉羅と一緒に、カフェラウンジの一角に腰を下ろして、カフェオレとマフィンを頼む。
 コーヒーを飲んでいる間も、じっと吉羅に見つめられて、香穂子は緊張を解くことが出来ない。
「日野君…、仕事を辞めて本格的にヴァイオリンの修行をする気はないかね?」
「そうしたいのは山々ですが、そうすると路頭に迷います」
 香穂子が苦笑いをすると、吉羅のまなざしは恐ろしいほどに深い色を滲ませた。
「…私が君のパトロンになって援助をしよう。住む場所も提供しよう。そうすれば、君は思い切りヴァイオリンの勉強が出来る。私は君のヴァイオリンの腕を延ばしたいと思っているのだが、どうかね?」
 吉羅にそこまで言って貰えたのはとても嬉しい。
 だが、そこまでして貰うには申し訳なかった。
「お気持ちはとても嬉しいですけれど…、私…吉羅さんにそこまでして頂くなんて出来ないです。ただでさえ、こうして掃除婦として雇って頂いているんですから」
 香穂子はにっこりと笑いながら、吉羅に頭を下げた。
「…君は欲のない子だね。欲がないとトップにはなれない。だからもっと欲を持って構わないんだ。ヴァイオリニストとして大成したいのならば、私の申し出を受けるのが当然だと思うが」
「有り難うございます。だけど私、私を支えて下さる方にはなるべく迷惑は掛けたくないんです。…だって、迷惑を掛けてしまったら、そのひとが嫌な気分になるじゃないですか。それが嫌なんです…」
 思わず本音が出てしまう。
 香穂子が一番迷惑を掛けたくないと思っているのは吉羅だ。
 だからこそ、この夢のような申し出も断るしかないない。
「そんなことは心配しなくて良いんだ。君はわたしの迷惑などは少しもかけてはいないのだから。それに私としても迷惑じゃない。私にとって君は先物取引のようなものだ。先を見越して投資するんだ。だから気にしなくても良いから」
「…考えさせて下さい」
 香穂子が小さく呟くと、吉羅は僅かに頷いてくれた。
「…解った」
 吉羅は落ち着きのある声で言うと、静かにコーヒーを啜った。
「君はそうしていると、とても美しく見えるね」
「魔法を掛けて貰ったので当然なのかもしれません。着替えたらその魔法もきっととけます」
 香穂子がおどけたように笑うと、吉羅はフッと笑った。
「日野君、魔法が消えても、君は美しいと思うよ。私はね…」
 ストレートなまなざしを向けられて、香穂子は落ち着かなくなってしまう。
「本当に綺麗だと思うよ…」
「…あ…」
 吉羅の顔が近付いて来て、さりげなく唇を重ねてくる。
 キスをされた瞬間、全身に狂おしい電流が走り抜けた。
 魔法がとけるどころか、更に魔法が掛かってしまったのではないかと思った。
 唇を強く吸い上げられて、唇がぷっくりと膨らんむ。
 吉羅とキスをしている間は、ある意味パラダイスではないかと思った。
 まだ頭をぼんやりとさせていると、吉羅は香穂子の唇から自分のそれを放すと、頬に柔らかなキスをくれた。
 まだ頭がロマンティックにぼんやりとしてしまう。
 香穂子は、吉羅の潤んだまなざしを浴びて、ドキドキが止まらなくなった。
「魔法を継続させたいと思わないかね?」
 吉羅の掠れた低い声に、香穂子はロマンティックに飲み込まれていく。
「…はい、飲み込まれたいです…」
 完全に吉羅に支配されてしまう。
 香穂子は頬をほんのりと赤らめながら、吉羅を真っ直ぐに見つめた。
「行こう」
 吉羅は香穂子の手をギュッと握り締めると、ホテルの最上階にエレベーターで向かう。
「今夜はここに泊まることにしていたから、部屋は取ってある…。君ひとりが増えても、構わないだろう」
「…有り難うございます…」
 香穂子は小さく頷くと、吉羅に導かれるままに歩いて行った。
 セキュリティを解除して向かった先は、ロイヤルスィート。
 香穂子には一生縁がないっ思っていた場所だ。
 部屋のロマンティックな豪華さに目を見開く。
 息を呑みながら見つめる部屋は、まるで夢のなかに出て来るスペースのようだ。
 ベイブリッジが見える港の夜景は本当に見事で、香穂子は息を呑むしかない。
「日野君…」
 掠れた声で名前を囁かれた後、背後から強く抱き締められる。
 吉羅の男としての性を強く感じて、香穂子は喘いだ。
 本当に魔法に掛けられたように、吉羅の前ではひとたまりもない。
 ふたりの間に何か特別なものがあるのではないかと思わずにはいられないほどに、ロマンティックを感じた。
 熱情と激情。
 それらが燃え上がって、化学変化を起こそうとしている。
 もう止めることなんて出来る筈もなくて、香穂子は躰が燃え上がるのを感じた。
 恋情が愛情に進化して、これ以上ないほどの情熱を生む。
「…香穂子…」
 初めて名前を呼ばれて、香穂子は背筋が震えるのを感じた。
 こんなにも震えるなんて今までなかった。
 吉羅に躰を預けるように凭れかかると、更に強く抱き締められる。
 吉羅の唇が首筋を捕らえた。
 強く押しつけられたまま、ドレスの胸元から肌に触れられる。
 敏感になった肌に、思わず声を上げた。
 吉羅は、腕のなかで香穂子の躰をくるりと返すと、その瞳を見つめてくる。
 頬のラインに触れられて、思わずうっとりとした視線を向けた。
 吉羅はフッと笑うと、香穂子を抱き締めてくれる。
 そのまま抱き上げると、ふたりには充分過ぎるほどに大きなベッドに静かに寝かされた。
 熱情が躰から迸るような気がした。



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