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「香穂子…!」 吉羅は意識を失った香穂子を強く抱き寄せると、直ぐに救急車を手配する。 やはり、逢わせるべきではなかった。 香穂子にちゃんと謝って貰いたかった。ただそれだけだった。 なのに想像以上に、頭取の娘は子どもだった。 あんなことをするとは、正直、思わなかったのだ。 全く予想外だった。 直ぐに救急車がやってきて、香穂子をそれに乗せる。 吉羅は一緒に乗り込み、その手を握り締めた。 華奢な手はとても温かい。 だがどうか。 お願いだから、助かって欲しい。 一番優先すべきは香穂子だ。 そして赤ん坊。 香穂子がいなければ意味がないのだ。 吉羅は、香穂子の手を握りながら、祈るような気持ちになっていた。 消毒薬の匂いがして、香穂子は目をゆっくりと開ける。 そこには医師と吉羅が心配そうに見つめていた。 「軽い貧血を起こされただけですよ。赤ちゃんには何も影響はありませんから、安心されて下さい」 医師の言葉にホッと胸を撫で下ろす。 「…良かった…」 香穂子はそれだけを呟くと、深呼吸を重ねた。 医師が行った後で、吉羅は本当に泣きそうな顔で香穂子を見つめる。 さすがに吉羅か泣くなんてことはないが、本当に心配してくれていたことは、まなざしを見れば明らかだった。 「…君が無事で良かった…! 私はそれだけが心配だった」 「暁彦さん…」 吉羅の声が珍しく揺れて、香穂子は嬉しいのに何処か苦しくなるのを感じる。 「…暁彦さん…、こうして私も赤ちゃんも無事でしたから…、そんな顔をされないで下さい…」 香穂子は穏やかな声で言うと、吉羅の顔のラインをゆっくりと撫で付ける。 「…香穂子…。…私は…、君が先ず無事であれば良いと思った。子どもよりも先ず君の安全が優先だった…。本当に最低な父親だろう…?」 吉羅は自嘲気味に呟くと、香穂子は嬉しさと切なさと愛しさで、抱き締めたくなる。 香穂子はすんなりとした腕を吉羅に伸ばすと、全身で愛を表わすように抱き締めた。 「…香穂子…」 吉羅はまるで小さな子どもが甘えるかのように、香穂子の胸に顔を埋めた。 暫く、じっとしている。 こうしていると、本当に静かな幸せがたゆたゆとふたりを満たしてくれるのが解る。 「…香穂子、直ぐに家に帰れるが、帰るかね?」 「…はい。やはり病院というところは、余り落ち着かないですね…」 香穂子が苦笑いを浮かべると、吉羅が逆に抱き締めて躰を起こしてくれた。 「…じゃあ、支度が出来たら、直ぐにうちに帰ろうか…」 「はい。有り難うございます。うちに早く帰りたいです。暁彦さんの家が、すっかり私の家になってしまってしまいました」 香穂子が幸せそうにくすりと笑うと、吉羅は髪を撫でながら、頬にキスをくれる。 「さあ、行くか。私たちの家に」 「…はい! 喜んで」 吉羅は、香穂子が帰る支度をするのを手伝ってくれた後、支えるようにしてタクシー乗り場まで歩いてくれる。 「少し、立ち寄りたいところがあるんだよ。一緒に来ては貰えないかね?」 「はい。行きます」 吉羅はタクシーの運転手に、横浜の山手方面を指示した。 ふたりで後部座席で寄り添っていると、何だかくすぐったい。 最近は吉羅の車ばかりだったから、タクシーの乗り心地を忘れていた。 こんなにも揺れるものだったのだろうか。 改めて吉羅の運転の心地好さを、香穂子は感じていた。 タクシーが止まったのは、瀟洒な山手の洋館前。 「ここはこれから私たち家族の住まいになるところだ。中庭も広いから、子どもたちはいつでも楽しく走り回れるよ」 「…暁彦さん…」 吉羅が、こんなにも素晴らしい場所を用意してくれていたなんて、香穂子は、嬉しさと感動で、涙を零してしまう。 「…有り難う…」 「中はいつでも住めるようになっているよ。どうかね、中に入ってみたくはないか?」 「はい。入ってみたいです」 「じゃあ中を案内しようか」 吉羅はスーツの内ポケットから電子キーを取り出すと、先ずは門を開ける。 セキュリティをされているからか、キーを使って暗証番号を押さなければならないようだった。 門が開いた後、吉羅は香穂子の手を引いて、中に入る。 邸宅といった表現がぴったりの住宅だ。 ヨーロッパの伝統と美しさを滲ませたような邸宅だった。 3階建てで外からは屋根裏にまで部屋があるように見える。 本当に美しいデザインの住宅で、映画やドラマのロケに使われてもおかしくはない家だ。 中庭は緑が瑞々しくて気持ちがよい。こんな夢のような家に住むことは初めてだったから、香穂子はうっとりと見惚れていた。 「そんな目で家を見られると、流石に私も妬けるかな。さあ、家の中に行こうか」 門から玄関先まで少し歩いた後、邸宅の中に入る。 ここにも最高のセキュリティが施されており、香穂子は安心して子どもと過ごすことが出来ると思った。 中に入るなり、玄関ホールの吹き抜けの素晴らしさに、香穂子は声を上げずにはいられなくなる。 「綺麗ですね…」 「私はあの廊下から君が手を振って出迎えてくれることを、とても楽しみにしているよ」 「はい」 「じゃあどうしても最初に寝室を案内したいんだ。私たちの場所だからね」 「…はい…」 吉羅と暮らす場所。 きっと何よりもロマンティックな雰囲気が滲んでいるのだろう。 寝室のドアを開けると、シックなデザインのキングサイズのベッドが置いてあり、優美なデザインの大きなテラス窓が見えた。 「そのテラス窓から外に出てご覧。横浜の景色が最高に美しく見えるから」 「はい」 香穂子はこころが弾むのを感じながら、爽やかな海風が吹き渡るバルコニーへと出た。 「凄い! 海が光っています! みなとみらいも一望出来て、とても綺麗です!」 昼間に見ても、本当に美しい景色だ。 きっと飽きないに違いないし、当たり前だとも思えないだろう。 それ程までに美しい風景だった。 キラキラと輝く水面が本当に美しくて、暫くは見つめていたいとすら思う。 「本当に綺麗です…。こんな綺麗な景色に見守られながら、暁彦さんと子どもと一緒に暮らしていけるなんて、こんなにも幸せなことはないです…」 嬉しい余りに、香穂子は瞳から涙がこぼれ落ちてくるのを感じる。 この場所で、最愛のひとたちと暮らせるなんて、なんて幸せなことなのだろうか。 「…香穂子…」 吉羅は深みのある声で名前を呼んでくれると、背後から抱き締めてくれる。 「…君に言わなければならないことがある…。君に謝らなければならないことがある…。…私は、君を傷付けることをし、失望させるこてを言い、苦しめ、泣かせてしまった…」 吉羅は、後悔を強く滲ませるように切ない声で呟くと、更に強く抱き寄せ、懇願するように香穂子の首筋に唇を寄せる。 「許してくれ…。決して許されるとは思ってはいない…。…君と子どもの命を守らなければならないはずなのに、私は逆に危険に晒してしまった…。これは私のミスだ。幼馴染みだからと、彼女に気を許していた…」 吉羅は自分の迂闊さを責めるような声で言う。 「ショックだったんじゃないですか…?」 「そうだね。妹のように思っていたから…。その隙を狙われて、君と子どもを危うく死なせるところだった…」 「…大丈夫です。こうして私たちは無事だったんですから…。…それに、私は最初から、何があっても、あなたを恨むことなんて出来なかったから…」 香穂子は、自分と子どもを守るように腹部に置かれた吉羅の手に、自分のそれを重ね合わせる。 「…あなたを愛していたから…ずっと…」 「…香穂子…!」 吉羅は香穂子の名前を感きわまった声で呼ぶと、その華奢な躰を思い切り抱き締めてくる。 躰を腕のなかで回転されると、そのまま唇が下りてきた。 深く深く唇を重ねられて、めくるめく熱情を感じる。そこには熱い想いしかなかった。 何度キスしても足りないほどにキスをした後、吉羅は香穂子の頬を包み込んで、その瞳を見つめて来る。 「…愛している、香穂子…。出会った時からずっと愛していたんだ」 吉羅の誠実な愛が感じられる告白に、香穂子は嬉しさの余りに涙を滲ませながら、抱き締め返す。 「暁彦さん…! 私もずっとあなたを愛しています。これからもずっと…」 「香穂子…!」 吉羅は香穂子にもう一度深いキスをした後で、抱き上げてベッドへと連れていってくれた。 愛し合った後で、吉羅は香穂子を離さないとばかりに抱き寄せる。 「これからは三人でしっかり生きて行こう」 「…はい。三人で幸せになりましょう」 ふたりはキスを交わしながら、幸せをこころから誓い合う。 この願いは叶うに決っているから。 |