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吉羅は信じてはくれない。 ならば一緒に暮らせない。 信じてさえくれたら、たとえ何があったとしても頑張ることが出来たのに、信じて貰えない以上は頑張れそうになかった。 香穂子は吉羅との別離を決意し、左手薬指に飾られていた指環を外すことにした。 もう一緒にはいられないから。 こんなにも不安定な状況が続いてしまったら、胎教にもよくないだろう。 悪阻がまだ収まっていないせいか、どんどん気分が悪くなる。 香穂子はドアを何度も叩いて、吉羅を呼んだ。 「…お願い…! 出して下さい…」 力なく叫んでも、吉羅はドアを開けてはくれない。 香穂子は躰から力が抜けていくのを感じながら、ドアの前で倒れこんだ。 我ながら、香穂子が絡んでしまうとどうして冷静でいられなくなるのだろうかと、吉羅は苦々しい想いを抱く。 先程までドアを叩く音が、あんなにも勢いがあったのに、不意に力なく止まる。 まさか。 吉羅は慌てて部屋のドアを開けると、その前に香穂子が顔色を無くして倒れこんでいるのが見えた。 「香穂子…!」 吉羅は香穂子を素早く抱き上げると、ベッドに運ぶ。直ぐに医師に連絡をして、往診を頼んだ。 自分と香穂子に子どもが出来たことを、こころから喜んでいながら、素直にそれを現わすことが出来なかったことが仇となってしまった。 香穂子をそばに置きたい余りに、冷静でいられなくなってしまっていた。 香穂子が妊娠初期の不安定な時期に、気遣ってやらなければならないはずが、全く気遣いが出来なかった。 吉羅は胃が強張ってどうしようもないのを感じながら、顔色を無くして眠る香穂子の手を強く握り締める。 ふたりの間に出来た、文字通りの“愛の結晶”が、もし流産でもしてしまったら、自分を責めても納得いかないだろう。 「…香穂子…、すまなかった…」 吉羅は香穂子に切ない気分で謝罪の言葉を言うと、あどけない頬を撫で付けた。 程なくして医師がやってきて、香穂子を診断する。 「今は流産の心配はありません。ただ相当ストレスを溜めていらっしゃるようなので、気遣って上げて下さい。何分、躰も精神も不安定な時期ですから…。ご主人だけが頼りなのですからね」 「…はい」 吉羅はホッとしながらも、また胸が痛くなる。 香穂子には酷い言葉ばかりを投げ付けていたから。 香穂子だからこそ甘えていたのかもしれない。 もっと気遣ってやらなければと、吉羅は強く思った。 医師は、香穂子に栄養注射を打ち、帰っていった。 程なくして、香穂子の顔色は良くなり、吉羅はホッと胸を撫で下ろした。 ゆっくりと香穂子の目が開かれる。 吉羅はその瞬間、強く抱き締め、香穂子にこころからの謝罪の言葉を口にした。 「…すまなかった…!」 吉羅の言葉に、香穂子はただ涙を零して抱き締めてくれた。 吉羅がこころから謝罪してくれたのが嬉しくて、香穂子は思わず涙ぐんでしまう。 許せないと思っていたくせに、こうして謝罪をされると簡単に受け入れてしまう。 愛しているが故のことだ。 「…香穂子、済まなかった…。君にも子どもにも、本当に申し訳ないことをしたね、私は…。君が絡むと、私は冷静でいられなくなるんだよ…」 吉羅の声が照れ臭そうに響いている。 それが香穂子にはとても新鮮に響く。 「酷いことをしてしまってすまなかったね」 「…大丈夫です…。少し休めば…」 香穂子が柔らかく微笑むと、吉羅は愛しいとばかりに抱き締めてきた。 「…君が私を騙すことなどないことは…、躰を使って誘惑をするようなことがないのは…、君の初々しい反応で解っていたはずなのに…。私はちゃんと見えてはいなかったようだ…」 吉羅の言葉に、香穂子はもうこれ以上蒸し返すのはよそうと思った。 「…大丈夫ですよ。そのことばで充分です…。私も赤ちゃんも…」 「香穂子…!」 吉羅は、息をすることが出来なくなるほどに、強く抱き締めてくる。 こうして抱き締めてくれるだけで、楽園にいるよりも幸せになれた。 「…君が優しくて、私は助かったのかもしれないね」 「暁彦さん…」 こうして抱き締められているだけで、今までのことは何もかも忘れられる。 それほどまでに吉羅のことを愛している。 香穂子は吉羅を抱き締めると、そのまま幸せに浸るように目を閉じた。 あれから吉羅はとても気遣ってくれるようになった。 それが香穂子には何よりも嬉しい。 “愛している”とは言われなかったが、吉羅の気持ちは充分過ぎる程に伝わってきた。 香穂子は、吉羅に呼び出されて、久し振りに本社ビルへと向かう。 厳しいセキュリティが施されている吉羅の部屋に、香穂子はスムーズに行くことが出来た。 吉羅の秘書に部屋に通されると、そこには帝都銀行頭取の娘が、誇らしげな顔で座っているのが見えた。 その顔を見るだけで、今すぐにでも出て行きたくなる。 吉羅はいつものようにクールなまなざしを香穂子に向けている。 離婚の話だろうか。 彼女がここにいる以上はそうかもしれない。 香穂子は背中に冷たい汗が滲むのを感じながら、覚悟を決めた。 「さてと話を始めようか」 吉羅は落ち着いた声で言うと、頭取の娘を見た。 「あの香穂子を中傷する記事を流したのは、君だね? 調べさせて貰った」 吉羅は冷静に言うと、頭取の娘を真っ直ぐ捕らえた。 彼女は目を伏せると、唇を強く噛み締める。 その態度を見ると、直ぐに犯人が誰であるかが解った。 やはり彼女だったのだ。 それ以外には考えられない。 「名誉棄損で法的手段を取らせて貰うことにしたからそのつもりで」 吉羅がキッパリと言うと、頭取の娘は酷い涙目で睨み付ける。 あれ程までに美しい女性だと思っていたのに、今はただ気の毒なほどに醜く感じられる。 「だって…あなたさえいなければ…、私は暁彦さんと結婚するはずだったのに…!」 彼女は怨みつらみを滲ませて声で言い、香穂子を見た。 「私は、最初から君と結婚する気はなかった。その証拠に、君とは男女の付き合いはしてはいなかった。違うかね…?」 吉羅の冷徹過ぎる声に、彼女は黙り込む。 香穂子を睨み、吉羅に縋るように見つめていた。 「…この子が悪いんです。暁彦さんも後悔するはずだわ。それに…、帝都銀行との融資話にも関係するのよ」 「君のお父さんは、これまで通りだと言ってくれている。君は私を妨害することなど、出来やしないんだ」 吉羅が斬って捨てるように言うと、彼女は蒼白になった。 頭取の娘だということが、通じなかったことなど、今までなかったからだろう。 信じられないとばかりに、暫く、固まっていた。 「…あんたが…あなたが悪いのよ…! あんたなんかが吉羅さんの子どもを身籠もったから…!」 彼女は立ち上がると、ソファに腰を掛けたく香子のお腹を、両手で突いた。 「……っ!」 香穂子はそのままソファから転がり墜ちる。 ショックでどうして良いのかが解らない。 吉羅は直ぐに香穂子の躰に駆け寄り、抱き寄せてくれる。 そして直ぐに警備員を呼んでくれた。 「大丈夫だ香穂子」 吉羅は香穂子の背中を何度も撫でて、あやしてくれる。 頭がくらくらする。 衝撃があまりにも酷かったからだろうかと、思う。 直ぐに警備員がやってきてくれて、頭取の娘を拘束してくれた。 ふたりきりになり、吉羅は香穂子を抱き寄せ、キスをくれる。 「…大丈夫かね…」 心配そうにしてくれている吉羅の表情が僅かに揺らぐ。 「…大丈夫…」 安心したからか、そのまま香穂子は意識を途切れさせた。 |