*誘惑のゆくえ*

17


 昨夜、へとへとになるまで愛されて、肉体的には幸せな疲労感を手に入れることが出来た。
 だが、こころはそうじゃない。
 やはり「愛している」とは言っては貰えない苦しみが滲んだままだ。むしろ、肉体で愛し合えば愛し合う程に、吉羅とのこころの溝が深まり、胸の痛みが増すような気がした。
 このままでは一緒にいられないだろう。
 一緒にいたとしてもこの苦しみから離れられずに、破綻するのがおちなのだ。
 それに子供を守り、吉羅に迷惑を掛けないためにも、離れたほうが良い。
 香穂子は吉羅が眠っているかどうかを確かめる。まだ寝息を立てているところを見ると、当分起きそうにない。
 荷物を紐解かなくて良かったと思いながら、香穂子がベッドを出ようとした。
「…あっ…!」
 昨日、眠った時には結ばれてはいなかったのに、手首にしっかりとネクタイが結ばれていて、吉羅の手首と繋がっている。
 香穂子の行動などお見通しとばかりに、吉羅はしっかりと結んでいる。
 香穂子が驚いていると、吉羅が不意に抱き寄せてきてベッドに引き摺り込む。
「あ、暁彦さん…っ!」
「君の考えることなど総てお見通しだよ、香穂子…」
 吉羅は低い声で囁くと、香穂子の華奢な躰を抱き寄せてきた。
「言っただろう? 君を離さないと。私は宣言通りにするつもりだよ」
 吉羅は静かに呟くと、香穂子の額にキスをした。
「…香穂子、そろそろ、結婚に“イエス”と言って欲しいのだがね…」
「…本当に吉羅さんがこころから望んで下さるのならば…」
「私はこころから望んでいる。望まなかったことはない。こんなに誰かが欲しいと思ったのは、生まれて初めてなんだ」
 吉羅は香穂子を抱き寄せると、髪を柔らかく撫でてくれる。
 吉羅の想いが感じられて、香穂子は嬉しく思う。望まれることがこんなにも嬉しいことはなくて、泣きそうになった。
「----解りました。あなたと結婚します」
 香穂子の言葉に、吉羅はフッと微笑む。
「子どものためにも、早く籍を入れよう。早速だが、着替えて役所に行こうか」
「はい」
 吉羅は、香穂子の手首に巻き付けていたネクタイをそっと外してくれた。
 その感覚に、香穂子は胸がキュンと鳴るのを感じる。もう少しだけ、繋がっていたかった。
「シャワーを浴びに行こう。ふたりで一緒だと、短い時間で済むからね」
「…恥ずかしいんですけれど」
「私しかいないから平気だろう?」
 そんな問題ではないと言いそうになったところで抱き上げられてしまう。
「あ、あのっ!?」
「一緒だ」
 吉羅に微笑まれると、抵抗なんて出来ない。
 香穂子はバスルームに連れていかれると、そのまま甘い時間を過ごすこととなった。

 着替えて、吉羅の車で役所に向かう。
 香穂子は些か緊張しながら、助手席に身を預けた。
「香穂子、これからは私が全力で君を護る。だからもう何も心配しなくても構わないんだ」
「有り難うございます」
 香穂子は礼を言いながらも、素直に喜ぶことが出来ない。
 理由は解っている。吉羅から、あの頭取の娘の影が払拭出来ないからだ。
 誰がどう見ても、吉羅に相応しいのはあの令嬢だろう。
 だが、吉羅は香穂子を選んでくれた。その事実は嬉しくてしょうがないが、それでもあの恐ろしいまなざしからは逃げられやしないのだ。
 役所に行き、婚姻届を書いて提出をする。
 役所に吉羅が書類を出し、程なくして夫婦と正式に認められる。
 そして香穂子は、手続きをして母子手帳を受け取った。
 誇らしい気分で吉羅に笑いかけると、笑みを返してくれる。
 本当に喜んでくれたと肌で感じて、香穂子は嬉しかった。
「結婚指環を作らなければならないね。帰りにジュエリーショップに寄ろう」
「有り難うございます」
 吉羅はフッと微笑むと、香穂子の手をギュッと握り締めてくれた。
 夫婦になって初めて繋ぐ手は、本当に温かくて快適だと香穂子は思う。
 吉羅に何度も誇らしげに微笑みかけながら役所を出たところで、思わぬフラッシュが焚かれた。
 キツいストロボの光に、香穂子は思わず瞳をすがめる。不快な眩しさに香穂子は閉口した。
「日野さん!吉羅暁彦さんを、罠にはめたと聞きましたが、良い気分ですか?」
 狡猾な声と共にいきなりマイクを突き付けられて、香穂子は咄嗟に顔を背けた。
 吉羅は直ぐに香穂子を護るように抱くと、駐車スペースへと素早く移動する。
「じっとしているんだ」
 吉羅は恐ろしい程に低い声で言うと、素早く車のドアを開けて、乗り込んだ。
 追いかけてくる記者を上手くかわすと、吉羅は車を急発進させた。
 車が走り出したことにホッとしながらも、香穂子は躰を緊張させてしまう。
「…香穂子、記者にリークしたのは、君か?」
 吉羅の声がうんざりとばかりに強張っているのが解る。
 そんなことをするはずもないというのに。
 やはり吉羅は完全に信じてはくれないようだ。
 香穂子には目眩を覚える。
「…ずっとあなたと一緒だったのに…、籍を入れることをリーク出来る筈なんてありません…」
 香穂子は苦しくて涙がこころの奥底から滲むのを感じながらも、決して泣くまいとこころに誓う。
 吉羅の前では。
「…あの頭取の娘さんにでもあなたがおっしゃったことじゃないですか? 私は本当に誰にも言っていません」
 香穂子がキッパリと言い切ると、吉羅は呆れたのように溜め息を吐いた。
「確かに彼女からメールが届いたから、君と籍を入れるつもりだと返信した。だが、私は今日だということは一言も言わなかったがね」
 吉羅は話したと認めているのにもかかわらず、彼女ではないと言う。
 これ以上に信頼していることはないのではないだろう。
 これ以上の屈辱はないのだろうか。
「香穂子、君はいつも彼女に嫉妬しているようだが、いい加減に、そんな子どもじみた嫉妬は捨て去りたまえ」
 吉羅の容赦ない言葉に、香穂子はこのまま苦しくて死んでしまうのではないかと思った。
「…私のことを信じては下さらないようですね…」
 香穂子は力なく呟くと、吉羅を見た。
「私たちはやはり一緒にならないほうが良いのではないでしょうか。だから…このまま車から下ろして下さい」
 香穂子が助手席のドアロックを解除しようとすると、吉羅は思い切り手首を掴んだ。
「危険だから止めるんだ。それに私は、君との結婚を止める気など更々ない」
 吉羅は力強く言い切ると、香穂子を牽制するように睨み付けた。
「子どもじみたことは止めるんだ。君はもうすぐひとの親になるんだ。なのにいつまでも子ども気分でいて貰っては困る」
「私はあなたにしたらいつまでたっても子どもです。あなたにはもっと大人の女性が相応しいです」
「…香穂子…」
 吉羅はまるで忌々しいもののように香穂子の名前を呼ぶと、不機嫌そうに黙り込んでしまう。
 それがとても苦しい。
 いくら子どもが繋ぎの役割をしてくれたとしても、それは苦しいだけだ。
 吉羅が他の女性を愛しているのを横目で見ているだけなんて、そんなことは堪えられない。
 いつか本当に苦しすぎて狂ってしまうかもしれない。
 香穂子は吉羅の住まいまで連れていかれると、まるで監禁されるように部屋に閉じ込められる。
「君は当分そこにいるんだ。頭を冷やせ」
「あなたこそ、頭を冷やして下さい…! 私は冷静です」
 香穂子は唇を噛み締めると、俯くことしか出来なかった。
「…記事については法的手段を検討する。それで君が白か黒か区別がつくだろう」
 吉羅はそれだけを呟くと、外側から鍵を掛けてしまう。
 絶望の余り、泣きたくなった。



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