*誘惑のゆくえ*

16


 パーティが無事に終わり、香穂子はホッと肩から力を抜く。
 吉羅は無言で車を運転しながら、氷のような表情のままだった。
 また今夜の香穂子も気に入らなかったのだろう。
 香穂子は溜め息を吐きながら、このままやっていけるのかどうか、とても不安になっていた。
 お腹の子供の為には、吉羅のそばにはいない方が良いのかもしれない。
 吉羅のそばにいれば、頭取の娘が常に付き纏うだろう。
 そうすれば子供の命も危ないかもしれない。
 車が吉羅の家に到着し、香穂子はゆっくりと車から降り立った。
 吉羅はといえば、不機嫌そうに先を歩いている。
 恐らくかなり怒らせてしまったのだろう。
 香穂子は目を伏せると、泣きそうな気分になった。
 家に入るなり、吉羅は香穂子を真っ直ぐ非難するように見つめてくる。
「先程はどうしてあのような子供じみた態度になったのかね? あんなことをするようでは、君をパーティに同伴するわけにはいかなくなる」
 吉羅の言葉が剣になって香穂子の胸を突き刺す。
 こんなにも厳しい言葉を浴びせるひとが、かつていただろうか。
 香穂子は滲む涙を必死に堪えたままで、吉羅を見上げた。
「…ではもう行きません…。私ではなく他の女性を探されて下さい」
 香穂子は声を震わせながら言うと、吉羅の横をすり抜けようとした。
「感情的になるんじゃない。彼女ならばそんなに感情的になったりしないだろう」
 吉羅の言葉に、香穂子は目を閉じる。
 もう一緒にはいられない。
 婚約者よりも他の女性を愛する男性とは。
 このまま一緒に暮らしても駄目だろう。
 香穂子は吉羅から離れなければならないと決意すると、吉羅を真っ直ぐに見つめた。
「彼女に中絶するようにと言われて、足を引っ掛けられたんです…。…私、そんなこと出来なかったから…。だから…、あのひとには何も頼りたくなくて…」
 香穂子がポツリと呟くと、吉羅は眉を冷たく寄せる。
「…そんな作り話をしても無駄だ。私は君よりも彼女との付き合いは長い。幼馴染みだからね。彼女がそのようなことを言ったり、強請するとは思えない」
 吉羅の言葉に、香穂子は唇を噛み締めた。
 これで何もかも壊れたのだ。
 香穂子は総てが音を立てて目の前で崩れていくのを感じながら、吉羅を見つめた。
 信じてくれないひととは、もう一緒にはいられない。
 愛しているからこそ、愛されていないのが辛いのだ。
「…嫉妬からかもしれないが彼女なら、君のように嘘を吐かない」
 吉羅は頭取の娘を完全に擁護している。
「明日、彼女には逢う予定になっている。そこで謝っておく」
「どうして彼女に逢わなければならないんですか?」
 香穂子が語尾を荒げて言うと、吉羅は厳しい表情になった。
「私が誰に逢おうが私の自由だろう。違うかね?」
 香穂子は唇を噛むとバスルームへと逃げ込む。
 お腹の子供は自分で育てていこう。
 吉羅から離れなければならない。
「香穂子? 拗ねていないで出てくるんだ」
 ドア越しに聞こえる吉羅の声に、香穂子は黙って首を振った。
「香穂子、本気で怒るぞ」
 吉羅の呆れ果てた声に、香穂子は洟を啜りながら黙っていた。
 不意に電話が鳴り響き、吉羅が受話器を取る音が聞こえた。
「…はい。なんだって? 記事が出る…」
 吉羅の声が急に低くなり、静かになる。
「…それは酷い。香穂子と婚約をしたのはそんな理由じゃないんだ…」
 吉羅の話が小さく聞こえる。
 何か厳しい記事が出るのだろうか。そんなことで吉羅が傷ついたらたまらない。
 今まで極秘であったはずなのに、漏れたとしたらあの女しか考えられない。
 香穂子は、胸が苦々しくなるのを感じながら、悔しさの余りに涙を零した。
 あの女がやったと言っても、吉羅は恐らく信じてはくれないだろう。
 あの女の思惑にははまりたくなかったが、吉羅から離れなければ、愛する男性を守れない。
 吉羅のそばから離れよう。
 決意をすると涙がまたこぼれ落ちてくる。
 香穂子がパウダールームのドアに背中を預けて膝を抱えたまま座り込むこんでいると、吉羅の気配を感じた。
「香穂子、怒らないから出てきなさい」
 吉羅の声がまるで小さな子供に話し掛けるかのように優しくて響いている。
 香穂子は、涙を飲み込む。
「…ごめんなさい…。今は出たくないんです」
「香穂子! わがままを言うんじゃない!」
 吉羅の苛立たしげな声が響き渡り、香穂子は身を竦ませる。
「実力行使に出るぞ」
「お願いです、ひとりにして下さい…!」
 香穂子もまた厳しい声で呟く。
「香穂子、お願いだから出てきてくれないか。それとも君はそこで一晩中過ごすつもりなのかね?」
「過ごすつもりです。明日には消えますから、あなたとはもう顔を合わせることは…」
 香穂子が洟を啜りながら言うと、吉羅は珍しく感情的にドアのノックをする。
「それは許さない。君は私の子供を人質に取る気かね!?」
「この子を守る為に私は消えます…。あなたから。この子は私だけの子供だと思って下さい…」
 香穂子の絶望的な決意の言葉に、吉羅は息を呑む。
「…吉羅さん…、私を信じて下さらないなら…、それだけです…」
「香穂子…」
 吉羅の声はまるで迷子になったかのように揺れている。
「君がそこにいるのなら、私もずっとここにいる…。君が出てくるまで…」
「吉羅さん…」
 香穂子は不意にドア越しの背中が温かくなるのを感じる。
 ふんわりとした優しさが滲んだ温もりに、恋情が込み上げてくるのを感じた。
 吉羅と背中合わせになっているのだろう。
 ひどく温かくて安心する温もりだ。
 香穂子は立ち上がると、ドアのロックを解除する。
 その音を聞いてか、吉羅が立ち上がるのを感じた。
 ドアを開けると、吉羅が小さな子供のような瞳を向けてくる。
「…香穂子…。何処にも行くんじゃない…」
「…吉羅さん…」
 ギュッとその広い胸に抱き寄せられて、香穂子は胸が切ない甘さで壊れそうになるのを感じる。
 それを何とか踏ん張る。
 背中を何度も撫でられた後、縋るように抱き締められた。
「…何処にも行かないでくれ…。香穂子…」
「…暁彦さん…」
 吉羅は香穂子を抱き上げると、静かにベッドへと連れていく。
 お腹に子供がいるから、吉羅はこうして引き止めるのだろうか。
 ある意味、子供は人質には違いないのだから。
 もし香穂子に子供がいなければ、頭取の娘と結婚したのだろうか。
 そのようなことを切なく感じてしまう。
 吉羅は香穂子のドレスを一気に脱がすと、奔放な生まれたままの姿にする。
「…君は本当に綺麗だ…。どこまで私を狂わせるのかね…?」
 吉羅は掠れたセクシーな声で呟くと、香穂子の唇を濃密に奪っていく。
「…君は本当に美しい…」
 吉羅の言葉に、香穂子はまなじりに涙を零す。
 本当にこころからそう思ってくれていれば、こんなにも切ない想いをすることはないのに。
 綺麗だと本当に思ってくれていても、欲しい言葉は別だ。
 吉羅からの「愛している」という言葉が欲しい。
 こんなにも愛しているから、それに応えて欲しい。
 我が儘なのは解ってはいるが、それでも言葉で具体的な愛を示して欲しかった。
 吉羅は昨夜自分が刻み付けた痕をなぞるように、消さないように、香穂子の躰に刻み付けていく。
 幸せと切なさ、希望と絶望が入り交じった気分で、香穂子は吉羅が奏でる官能のワルツを踊った。



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