*誘惑のゆくえ*

14


 香穂子のお腹に子供がいると告げられた時、嬉しくて堪らなかった。
 どうしても自分のそばに置いておきたかった相手だから、これ以上の口実はないように思えた。
 今まではかなり用心深くした上で、女性との束の間の情事を楽しんでいた。
 男と女は所詮泡沫な関係であると解っていたからだ。
 だが、香穂子だけは違った。
 余りに狂わせる。
 冷静でいられなくなるほどに、惹かれた。
 それが愛なのかと言われれば、正直言って解らない。
 吉羅は男女の愛がどのようなものであるかは、冷めた考えしか持ってはいなかったから。
 だが香穂子になら教えて貰えるような気がする。
 香穂子ならば、温かな感情を植え付けてくれると思っていた。

 香穂子には快適に妊娠期間を過ごして貰いたい。
 その一心で、吉羅は必要なものを買い揃えた。
 香穂子はかなり遠慮をしていたが、快適に過ごすためなら何でもしてやりたかった。
 それに買い与えられるのが当たり前だと思っているような女たちが多いなかで、遠慮した香穂子は新鮮だった。
 余計に何かをしてやりたくなる。
 香穂子が幸せになるためならば、自分が出来る限りのことはしてあげたかった。
 この感情を何と呼ぶのかは解らない。
 だが心地好い感覚には違いなかった。

 妊婦として必要な買い物を終えた後で、吉羅は香穂子を連れてジュエリーショップへと向かった。
 左手薬指を掴まえておかなければならない。
 永続的な関係の証なのだから。
「吉羅さん、あ、あの、プレゼントして下さった指環で充分です」
 香穂子は本当に焦るように言う。
「だが、私はきちんとした形をしたいんだよ」
「この指環も本当はもの凄く気に入っていたんです…。吉羅さんの前以外では、ずっとしていましたから…。 掃除するから勿体なくて着けられなかったっていうのも、あるんですけれどね…」
 香穂子はペンダントにしているリングを、本当に幸せそうに触れている。
 それが吉羅には嬉しくてたまらない。
 はにかんだ笑顔がこんなにも可愛い。
 今まで見落としていたが、仕草もとても可愛くて、吉羅はこころ奪われる。
「…香穂子、だからこそ、私は君に最高のリングを贈りたいんだよ」
 吉羅は落ち着いた声で言うと、香穂子を視線で愛撫をした。
 香穂子がそばにいる。
 それだけで最高に幸せだった。

 吉羅とジュエリーショップのカウンターに腰を掛けて、香穂子は鼓動を激しくさせる。
 ちらりと吉羅を横目で見ると、落ち着いていた。
 緊張しているのは自分だけなのだろう。恐らくは。
「このデザインはシンプルで美しいね。君はどう思うかね…?」
 吉羅に指環を見せられて、香穂子は軽く息を呑んだ。
 驚くばかりのダイヤモンドの大きさに、香穂子は吉羅を見た。
「…確かにとてもシンプルで綺麗ですが…、こんなにも大きなダイヤモンドなんて…」
「このデザインは君も気に入っているんだね…?」
「…デザインはとても…」
「だったらこれに決めよう。このデザインはとても君に似合っているから、出して貰ったんだ。これを彼女の指のサイズに合わせてくれ」
 吉羅が素早く注文を出すと、ジュエリーショップの店員は、直ぐに指のサイズを計りにきた。
 こんなに高価そうなものを吉羅から貰うわけにはいかない。
 不安げに吉羅を見つめると、吉羅は香穂子の重い想いをかき消すような笑みを唇に浮かべてくれた。
「永続的な関係の証だ。それにはちっぽけなものは似合わないと、私は思うがね」
「…吉羅さん…」
 吉羅はカウンター下にある香穂子の手を、そっと握り締めてくれる。それの温もりが香穂子には嬉しい。
 ようやく指環を受け取っても罰は当たらないのだと思えた。
「…判りました。本当にどうも有り難うございます」
 香穂子は吉羅に頭を深々と下げると、にっこりと笑った。

 ジュエリーショップを出た時には、昼食には頃合の良い時間になっていたので、軽く食事をした。
 その後、香穂子が住み込みで働いていた楽器店へと向かった。
 挨拶をして、必要な荷物を取りに行くのだ。
 楽器店の老夫婦は、香穂子にとっては本当の親も同然の関係だ。
 だからこそ、こうして吉羅が挨拶をしてくれるのが、嬉しくてしょうがなかった。
「香穂子ちゃん! まあ、こんなに素敵なひとを掴まえたのね! 本当に良かった!」
 楽器店の老婦人は本当にこころから喜んでくれている。
 楽器店の主人と吉羅は気が合ったようで、とても楽しそうに話をしていた。
 老婦人とふたりで、お茶の支度をする。
「香穂子ちゃん、本当に綺麗に輝いているわね。そこまで女が輝けるのは、愛する男性に愛された時にだけだわ。香穂子ちゃん、吉羅さんをとても愛しく思っているのね」
「…はい…」
 母親のような存在である老婦人だから、香穂子は素直に自分の気持ちを言うことが出来た。
 しかしこれが吉羅の前になると、生憎、素直になることが出来ない。
 吉羅の前だと、愛されていないことを思い知らされるのが怖いのだ。
 吉羅に愛されたい。
 それ以上に愛したい。
 香穂子の強い願いでもあった。
「あの方がお相手ならば、心配ないわね。あなたは誰よりも幸せになるわ。また、そうなると、私たち夫婦は信じているのですからね」
 老婦人は笑顔で言い切ると、香穂子をそっと抱き寄せてくれた。
「幸せになるんですよ。良いわね?」
「…はい。有り難うございます。幸せになります」
「後、あなたの子供は私どもにとっては孫と同じだから、必ず見せに来てね。楽しみにしているから」
 老婦人の言葉に、香穂子は驚いてその顔を見た。
 老婦人はただにっこりと笑うだけだ。
「年の功ですよ。あなたのお腹に赤ちゃんがいることは、少し前から気付いていたのよ。だから、あなたを心配して見守っていたのよ。だけどあの方なら大丈夫ね。あなたは必ず幸せになれるわ」
「有り難うございます…」
 温かな老婦人の言葉に、香穂子は今にも泣き出したくなる。
「…赤ちゃん、見せに来ますね…。必ず…」
「ええ、本当に楽しみにしていますからね」
 老婦人の言葉に、香穂子は泣き笑いの表情を浮かべると、強く抱き締めてくれた。
「幸せにおなりなさい」
「…はい。有り難うございます…。幸せになります…」
 泣き笑いの表情を浮かべると、老婦人はぽっちゃりとした躰で抱き締めてきた。
 本当に吉羅と幸せになれたら良い。
 吉羅と愛し合っていることを実感するのが、香穂子には一番の幸せにであるからだ。
「あなたは今まで頑張ったから、幸せになる資格があるんですよ。だから頑張りなさい。最高の幸せを掴んで良いのだから。あなたは」
「有り難うございます」
 女性の温かさがこころに染み透るのを感じながら、香穂子は笑顔で頷いた。

 僅かな香穂子の荷物をトランクに詰め込んで、楽器店を後にする。
 正直、楽器店を後にするのは切なくて寂しくてしょうがない。
 香穂子が泣きそうになっていると、吉羅がそっと肩を抱いてくれた。
「…寂しいのかね…?」
「少しだけ…」
 笑おうとしても上手く笑えないでいると、吉羅は香穂子を慰めるように抱き締めてくれた。
「…また逢えるから…」
「…そうですね…」
 洟を啜りながら笑おうと努力をすると、吉羅は慰めるように額にキスをしてくれる。
 唇が温かくて幸せを感じた。
「…有り難う…」
 吉羅になら総てを預けられる。香穂子は強く感じていた。



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