*誘惑のゆくえ*

13


 気付いたのは、見知らぬ家の大きく心地が良いベッドだった。
 香穂子がゆっくりと視線を動かすと、甘い視線とぶつかる。
「…気分はどうだね? 香穂子…」
 吉羅は、まるで香穂子が最も愛しい女性のように頬を柔らかく撫でてくれる。
 それが心地好くて、香穂子は思わず日向の猫のように目を細めた。
「…少しだけ怠いですが、大丈夫です…。有り難うございます」
 香穂子がぼんやりと言うと、吉羅はその額を撫でてくれた。
「ここは何処ですか…?」
「私の家だよ。病院にでも連れて行こうと思っていたが、うちで医師を呼んだほうが早いと思ってね。それでこちらに連れて来た」
「介抱をして下さって有り難うございます。少し休めば帰ることが出来ると思います…」
「余り無理をしなくて良い」
 吉羅は香穂子に釘をさすように言うと、額に唇を落してきた。
 とろとろと溶けてしまうかのような甘い仕草に、香穂子は本気になってしまうではないかと思う。
「このベッドは吉羅さんのお使いのベッドですよね…? 余りご迷惑をかけることは出来ません…」
「確かに私のベッドだが、君が遠慮をする必要はない。君にも使って貰うベッドになるかもしれないからね」
吉羅は意味ありげな視線を、香穂子に向けてくる。
「少し躰を起こして良いかね?」
「はい…」
 香穂子が頷くと、吉羅は背中に手を宛てて、ゆっくりと躰を起こしてくれた。
 すると白衣を着た医師が姿を現わす。
「日野さん。君は妊娠しています。倒れたのは妊娠初期の貧血が原因です」
 妊娠。
 その文字に、香穂子は思わず吉羅を見上げる。
 お腹に手を宛てると、愛おしさが込み上げてくる。
「君のお腹には私の子どもがいるんだ、香穂子」
 吉羅は非難をするわけでない甘い声を出すと、香穂子の腹部を緩やかに撫でた。
 吉羅の子ども。
 愛するひととの子どもが出来ることはとても嬉しい。
 だが、吉羅は望んでいないのではないかと、香穂子は思わずにはいられなかった。
 僅かに震えてしまう。
 香穂子にとっては愛ゆえの授かった子供だ。だが、明らかに吉羅は違う。それが苦しくて辛い。
「…香穂子、今日からはここで暮らすんだ」
 吉羅は香穂子の手を握り締めると、そっと力を入れてきた。
 その力強さに支配欲を感じながら、香穂子は吉羅を見上げる。
 震えを必死に抑え込むと、香穂子は吉羅から視線を落した。
「…しまったって思っていませんか…?」
 吉羅の眉が不快そうに上がる。
「思ってはいない。私は子どもを持ちたいと思っていたからね。…だから中絶は認めない」
 吉羅はキッパリと言い切ると、香穂子を真っ直ぐ見つめた。
「私も子供を失うようなことを故意にはしたくありません…だけど…」
 香穂子は言葉を切る。
 だが、愛人の子供だという肩書きがついてまわるのが、嫌でしょうがなかった。
 香穂子よりも、子供が嫌な想いをするのが、何よりも嫌なのだ。
「…私と子どもを囲い者にする気ですか…?」
「そんなことはしない。私はそんなことが出来るほどに器用な質ではないからね」
 吉羅は香穂子を、不意に抱き締めてくる。
「…私と一緒にならないか?」
「一緒に…?」
「結婚しようかと言っているんだよ…」
 香穂子は一瞬、何を言われているのか分からなかった。
 結婚。
 愛人ではなくきちんと妻にすると、吉羅は言ってくれているのだ。
 こんなに嬉しいことはない。
 だがひとつ切なくなることもある。
 吉羅に愛情があるのかということだ。
 子供にはあるだろうが、恐らく香穂子にはないのだろうから。
 結婚というのは、永続的な交わりだ。
 だからこそ、愛が深くなければ苦しい。
 香穂子が逡巡するように唇を噛みしめていると、吉羅が頬を撫でてくる。
「…香穂子、返事はゆっくりと考えてくれれば良い…。後、ここには引越して来て欲しい。子供がいるから、無理はして欲しくないんだ」
「…はい」
 妊娠した状態で、これまでのように働くことはかなり難しいだろう。
 ここは吉羅に従うのが懸命に思えた。
「有り難う…。君とお腹の中の子供は、私が全力で幸せにするから」
「有り難うございます」
 吉羅ならば言葉通りに、素晴らしい父親になってくれるだろう。
 それは確信が持てる。
 だが、夫してはどうだろうか。
 仕事に没頭するふりをして、妻のことはどうでもよくなるのがおちだろう。
 そう思うと、切な過ぎて泣けて来た。
「…香穂子…、どうした?」
 吉羅はほんの少しだけ慌てるように言うと、香穂子をその胸で抱き締めてくれた。
 優しく背中を撫でてあやしてくれる。
 男らしい優しさが、香穂子のこころを満たしてくれた。
「妊娠すると情緒が少し不安定になるんです…。だからだと思います」
 洟を啜りながら笑うと、吉羅は更に強く抱き締めてきた。
「…君は…」
 苦笑いを浮かべた後で、吉羅は背中をゆっくりと擦ってくれた。
 吉羅は香穂子の表情を見つめると、唇をゆっくりと重ねてくる。
 深い角度で重ねられて、香穂子はこのままとろとろになって、蜂蜜になってしまうのではないかと思った。
 何度も唇を重ねあって愛情を貪っているうちに、吉羅にベッドに押し倒される。
 そのまま官能の渦に巻き込まれて、香穂子は快楽に墜ちていった。

 心地好い気怠さに目を開けると、鮮やかに朝が訪れていた。
「…おはよう」
「おはようございます」
 吉羅は香穂子を抱き寄せて触れるだけのキスをする。
「…こうした朝を毎朝迎えられると、私は嬉しいんだけれどね…」
「…私も、そうなれば、こんなに素晴らしいことはないって思います…」
「…だったら、せめて婚約だけでもしないか? 君が私と結婚する気になったなら、その時は結婚をする…。どうかね…?」
 婚約して、気持ちが整理をつけられるまでは待ってくれるという。
 これ以上の譲歩はないのではないかと香穂子は思った。
「…判りました。あなたと婚約します…。ここで住みます」
「…有り難う、香穂子」
 吉羅は極上のキスをすると、そのまま躰を愛し始める。
「君を抱きたくて抱きたくてしょうがなかったんだよ…」
 吉羅はよく響く甘い声で囁くと、再び香穂子を官能の世界へと誘った。

 吉羅とふたりで午後から出掛けた。
 こうして出掛けるのは初めてで、初々しいデートのようで嬉しい。
 主に香穂子が当座に必要なものを買い込むことにあてられた。
 マタニティ用だが、官能が滲んだワンピースや、ヒールのないサンダル。
 これから必要なものを大量に買い込んだ。
「吉羅さん、こんなにも必要ないかと…」
「必要だよ。君はこれから出産に向けて大変な時期に入るからね。必要なものは今のうちに買っておかなければならないからね」
 吉羅が余りに甘やかしてくるものだから、香穂子は嬉しいやら悪いやらで複雑だ。
「本当に有り難うございます」
「後、ひとつどうしても必要なものがあるからね」
「必要なもの…?」
 香穂子は、買い物袋の山を見ながら、これ以上必要なものはあるのかと思う。
「…君の左手薬指に、必要なものがないだろう?」
 香穂子が嬉しい驚きに頬を染め上げると、吉羅もフッと微笑んでくれる。
「指のサイズを計りにいかなければならないね…」
「あ、あのっ、この指環のサイズでぴったりだと…」
 ペンダントにしていたネックレスを見せると、吉羅は薄く微笑んでくれた。
「そうして身に着けてくれていたことが嬉しかったんだよ」
 吉羅の言葉に、香穂子はまた蕩けそうな幸せを味わっていた。



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