*誘惑のゆくえ*

12


 吉羅の前以外で、吉羅からプレゼントされたリングを右手薬指につける。
 右手薬指というのは、香穂子には一番の配慮でもあるし、意地でもある。
 左手薬指は、永遠の愛の象徴のような気がするから。
 香穂子はあえて左手薬指を避けたのだ。
 楽器店で働いている時も、ヴァイオリンのレッスンをしている時も、常にいつもリングが一緒だ。
 これ以上素敵なアクセサリーはないのではないかとすら思った。
 吉羅とは掃除の仕事中によく出会う。
 いつも香穂子の指にリングがはめられていないか視線で探しているのだ。
 直ぐに解る。
 吉羅は知らないだろう。
 掃除の時間だけは、リングがチェーンに通されて、ちゃんと身に付けられているのを。
 本当はとうの昔に吉羅の前でリングはつけられていたことを。
 今夜も掃除道具を持って移動中に、吉羅と出会った。
「今夜もせいがでるね」
「お仕事ですから、しっかりとやるだけですよ」
「それは頼もしいね」
 吉羅はフッと笑みを滲ませながら言うと、香穂子を見つめた。
「仕事の後、少し食事をしないかね?」
「…すみません…。今夜は帰ります。疲れているようなので、休息をしっかりと取りたいんです。明日も朝から仕事なのだ」
 やんわりと断ると、吉羅は厳しい鋭い視線で香穂子を見つめてくる。
「…日野君、君は…、疲れているのなら休んでも構わないんだ。それに私の申し出を受け入れてくれさえいれば、そんなことは起こらないはずだが、違うかね?」
 吉羅は心配してくれているのかいないのか解らないギリギリのところの視線を向けて来た。
「…なるべく自立をしていたいんです。誰かに頼ってしか生きられない生き方は、やっぱり嫌なんです。私は…」
 香穂子は唇を噛み締めると、握り拳を強く作る。
「…香穂子、余り無理をするもんじゃない。余り意地を張っていると、本当に倒れてしまう」
 吉羅の鋭い指摘に、香穂子はフッと微笑んだ。
「大丈夫ですから。では失礼します」
 香穂子は、吉羅の横をすり抜けようとする。だが、直ぐに腕を掴まれてしまった。
「ったく、君はどうしてそんなにかたくななんだ…」
 吉羅はさらりと艶のある髪を揺らすと、苦悩するかのような皺を眉間に刻み付ける。
「…ったく…。休む時はきちんと休むんだ。それをしないと本当に手遅れになる」
「まだ平気ですから大丈夫ですよ。吉羅さん…。だから離して頂けませんか?」
 香穂子は背中に甘い旋律が走り抜けるのを感じながら、吐息を僅かに震わせる。
「…君は覚えているかね? 私は断られることには慣れていない、と、言ったことを…」
「覚えています…。あなたらしいと思いましたから…」
「そうだ。だから君を自分のそばに置くことを、私は全く諦めてはいない。それどころか、今の状況を見ていると、益々そうしなければならないと思うようになったがね」
 吉羅は意地悪にもゆっくりと香穂子の腕から手を離す。
「…また連絡をする。食事でもしよう」
 吉羅はそう言うと、優雅に役員室に向かっていく。
 その後ろ姿を見つめながら、香穂子は僅かに溜め息を吐いた。
 本当は、今すぐにでもさらって欲しいとすら思っている。
 だが、それは難しい。
 傷つきたくないというこころが、香穂子をかたくなにさせている。
「…吉羅さん…」
 香穂子はその名前を呼ぶと、胸が締め付けられる程に苦しいのを感じていた。

 本当に体調が余りよくない。
 怠いしくらくらする。
 胃の調子も最悪だ。
 きっとかなりのストレスが溜まりに溜まっているからだろう。
 休みたいものの、生きて行くためには休むことは許されない。
 そのせいか体調の悪さは、日に日に不安定さをもたらしてきた。
 ひょっとして最近、吉羅に逢わないからかもしれない。
 吉羅に逢えると、ずっと体調が良かったのに、ここのところ出張等で吉羅が出社していないせいか、全く姿すらも見ていない。
 その姿が視界に入らないだけで、こんなにも切ないなんて思ってもみなかった。
 吉羅に逢えないからだけで具合が悪くなるなんて、初恋の切なさに震える中学生のように思えた。
 香穂子が掃除に入る時間帯に、久しぶりに吉羅の後ろ姿を見掛けた。
 逢えるのが嬉しくてしょうがなくて、香穂子は思わず笑顔を零してしまう。
 暫くして、帝都銀行総裁の娘が、役員室に向かう姿を見掛けた。
 美しく着飾った姿は、本当に綺麗だ。
 恐らくは吉羅に逢いにきたのか、デートの約束でもしているのだろう。
 綺麗に着飾った姿は、本当に息を呑んでしまう。
 気品と教養が備わった女性。
 吉羅の横に立つには最も相応しいと思えるひと。
 住む世界が違うことを思い知らされる。
 香穂子は胸元に揺れるリングが音を立てて揺れるのが、泣きそうになるぐらいに切なかった。
 暫く、何とか掃除に勤しんでいると、完璧なふたりが並んで歩いているのが見えた。
 本当によくお似合いだ。
 吉羅の横には、自分は相応しくないのだ。
 相応しいのはあの美しいひとのような女性だ。
 総てが申し分なく、吉羅に利益をもたらしてくれる女性だ。
 香穂子はふたりの姿を見て、自分が吉羅にとってはいかに相応しくないかを知り、泣きたくなった。
 なんとか気力を振り絞って仕事をした後で、香穂子は家に戻った。
 あんなものを見せられた後では、何もする気がおきない。
 胃が痛くて痛くてたまらなくて、気分もかなり重い。
 こんなにも気分が悪いのは、初めてだった。

 朝、何も食べる気が起きなくて、なかなか起き上がることが出来なかった。
 香穂子は何とか楽器店の仕事をこなすことが出来たものの、ヴァイオリンレッスンが終わったところで力尽きてしまった。
 結局は、掃除の仕事は休むことにし、休養することにする。
 休んだとしても、吉羅は気にすることはないだろう。
 恐らく気付くこともないはずだ。
 香穂子はベッドに横になると、そのまま深い眠りに墜ちた。

 翌日も体調が戻らず、結局は掃除の仕事は早々に休むことにした。
 二日も仕事を休むのは、正直いって苦しいが、仕方がない。
 この体調ではどうしようもない。
 香穂子は何とか楽器店の仕事だけをこなして、またベッドに横になる。
 こんなにも体調が悪いのは初めてかもしれない。
 経験のない苦しみに、香穂子は溜め息すら吐くことが出来なかった。
 この苦しさは、吉羅とあの綺麗なひとが一緒に出掛けるのを見たからだろうか。
 それにしては重くて鈍い苦しみのような気がすると、香穂子は思っていた。

 日野香穂子をここのところ見掛けない。
 一日たりとも見掛けない日があるとこんなに苦しいものなのだろうかと、吉羅は思った。
 いつものように香穂子が掃除をするルートを歩いても、別のクリーンスタッフに遭遇するだけだ。
 掃除担当者に香穂子のことを訊くと、体調不良による欠勤と伝えられた。
 やはりダブルワークというのに無理があるのだ。そうさせないために、香穂子を説得する必要があると吉羅は考える。
 吉羅は、香穂子が出勤してきたならば、直ぐにでも掴まえようと思っていた。

 翌日、ようやく仕事に出ることが出来た。
 正直ホッとする。
 気分が悪いのは事実だが、昨日よりは随分とマシだ。
 掃除用の大きな機械を持って、香穂子がエレベーターに乗り込んだ時だった。
「香穂子」
 吉羅がドアを閉じようとしたところで、強引に入り込んでくる。
 エレベーターでふたりきりになるなり、不息抱き締められた。
「…CEO、止めて下さい…」
「…体調を崩すようなことを、二度と起こさせたくない…。香穂子…、今すぐ私のところに来るんだ」
 吉羅に抱き締められるだけで、息苦しくてしょうがない。
 いつもよりも心拍数が上がり、緊張が高まる。
 吉羅の胸を切なくさせる香りが、香穂子を狂わせた。
 意識も感覚も総てが吉羅色に狂っていく。
 視界が歪んで、意識が遠くなる。
「…香穂子…っ!」
 そのまま、意識が遠くなり、暗転した。



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