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吉羅の言葉が頭のなかでリフレインする。 声が蘇る度に、香穂子は緊張の余りにこころをときめかせる。 甘い感覚に全身が蕩けてしまいそうだ。 このまま吉羅に“イエス”と言ってしまいたくなる。 だが言えない。 イエスと言ってしまえば、また辛さが募るのではないかと思うからだ。 愛人として囲われるよりも、恋人としてそばにいたい。 施しを受けるのではなくて、お互いの立場が対等でありたいと思う。 だからこそ、ここで吉羅の条件総てを受け入れることが出来ないのだ。 香穂子は溜め息を吐く。 気持ちは昨日よりもずっと薔薇色に輝いていた。 絶対に手に入れる。 そう誓ったからなのか、吉羅は毎日のように香穂子に声を掛けてくる。 本当に愛されているのではないかと、錯覚してしまいそうだ。 だが違うのは解っている。 吉羅は愛人として香穂子をそばに置こうとはしてはいるが、恋人としての対等関係は望んでいないのだから。 吉羅にあるのは所有欲だけだ。愛じゃない。 「香穂子、食事ぐらいは一緒にどうかね?」 吉羅の誘いを何度も断ることが出来なくて、香穂子はにっこりと苦く笑う。 「…判りました。何度も断るのは失礼だと思いますから、今夜はご一緒します」 「有り難う」 吉羅は薄く笑うと、香穂子の手をエスコートするように握り締める。 その強さに、甘い疼きが全身を駆け抜けた。 吉羅に抱かれた夜のことを思い出してしまい、何処か切ない気分になった。 ああして愛に満ちた情熱的な夜は、もう訪れないだろう。 だからこそ切ないのだ。 「…アンサンブルを聴かせてくれるレストランがあるんだ。行こうか」 「はい」 アンサンブルを生で聴かせてくれるなんて、こんなにも魅力的なレストランはない。 香穂子は、今夜だけでも恋人気分に浸れたらと、思わずにはいられなかった。 吉羅が連れていってくれたレストランは、落ち着いたロマンティックが溢れていた。 そこで吉羅にエスコートをされると、甘いロマンス小説でも読み耽った気分になる。 何を頼んで良いか分からなくて、結局は吉羅に総てを任せてしまった。 「私は車だからアルコールは飲まないが、君は?」 「アルコールはいらないです。少しは飲めますが、何処が美味しいのか分からなくて…」 「美味しいというよりは、心地好く酔っ払ってしまいたいからじゃないのかね」 吉羅はゆっくりとしたリズムで呟くと、香穂子を見上げた。 吉羅暁彦は極上のアルコールなのかもしれない。 こんなにも甘く心地好く酔っ払えるアルコールは他にない。 吉羅と他愛ないクラシック談義に花を咲かせていると、本当に時間はあっという間に過ぎてしまう。 それはきっと吉羅のマジックだ。 結局は、吉羅のそばにずっといたいのだから。 デザートの時間になり、吉羅は香穂子を見つめると、スッと小さな包みを出してきた。 「私の申し出は、よく考えてくれたかね?」 「…私は“愛人”なんて不安定な立場が嫌なんです…。ただそれだけです。確かに、生きて行くために、あらゆる仕事をしているのは確かですが、だからといってあなたに囲われるのは嫌なんです。私は私で自立していたいんです。総てをあなたに託すことは、寄り掛かることは、私には出来ません…」 香穂子は素直に自分の気持ちを吐露する。 「…君を総てにおいて支配したいわけじゃないよ。私としてもね…。ただ、君とはこうして毎日のように逢いたい。ただそれだけだ」 吉羅は香穂子に包みを渡す。 「これは?」 「リングだ。約束をしてあげるものではないが、受け取って欲しい。私を受け入れてくれるならば、そのリングをはめて逢いにきて欲しい。君にぴったりの筈だ。眠っている間に、サイズを計ったのだからね」 「有り難うございます…。だけど…私…」 香穂子は唇を浅く噛むと、そっと俯く。 約束も何の意味もない指環。それを受け取るわけにはいかないのだ。 吉羅を愛している。いや、愛してしまったが、だからこそ受け取ることなど出来ない。 「受け取ることは出来ません…。私…」 「はめなくても良いから、受け取ってくれたらそれだけで良い。気持ちが変わったなら、指環をはめてくれ。それほど高価なものではないから、君も構えなくて構わない」 「…吉羅さん…」 「デザートを食べたら送ろう。本当は君と一緒に過ごしたいところだが、そこまではまだ準備が出来てはいないだろう…?君のこころは…」 「…はい…」 このまま吉羅に抱かれたら、ズルズルといってしまいそうな気がするから嫌なのだ。 愛人のままで、陽にあたる関係でないままで一緒に過ごすなんて、香穂子には考えられなかった。 いつか他の誰かと吉羅が結婚してしまった時に、惨めになってしまうだけだ。 「暁彦さんではありませんか?」 デザートを食べ終わる頃、美しい女性がテーブルにやってきた。 香穂子が顔を上げると、先日のパーティで見掛けた女性がにっこりと微笑んで立っていた。 品の良く美しい女性は、吉羅と同じ世界に住んでいる。 香穂子よりもずっと吉羅の妻に相応しい。 こんなにも美しい女性がそばにいるのだから、愛人なんて必要ないのではないかと思う。 「…あら、この間のヴァイオリニストの方ね? 素晴らしい演奏だったわ。とても良かったですよ」 「有り難うございます」 にっこりと微笑まれて、香穂子は立ち上がって礼を言った。 ヴァイオリンの演奏を褒めて貰えるのは、香穂子にとっては何よりも嬉しいことなのだから。 「暁彦さん、また明日お願いします」 「ああ。解った」 吉羅には妖艶な笑みを浮かべた後、一瞬ではあるが香穂子を侮蔑するような笑みを瞳ににじませる。 それを香穂子は見逃さなかった。 いつも品良く、誰よりも優しさを滲ませている女性であるのに、唇に浮かんだ笑みは、何処か冷たい。 吉羅はそれに気付いてはいないようで、いつものように接している。 吉羅にはきっと見せない顔なのだろう。 その顔を見て、香穂子は何処か切なくなった。 「ではヴァイオリニストさん、また…」 「はい…」 香穂子は頷いたものの、最後まで頷くことが出来なかった。 食事が終わり、今夜は素直に送ってくれる。その気遣いが香穂子には嬉しかった。 「もし、私を受け入れる気になったら、そのリングを着けて私に見せてくれ」 「…はい…」 リングは嬉しい。 大好きなひとにリングをプレゼントされて、喜ばない女はいないだろう。 嬉しいが、複雑な気分だ。 吉羅の愛人になると宣言するようなものだからだ。 それは余りにも切ない。 香穂子は、吉羅から貰った包みを持ったまま、暫くじっとしていた。 吉羅の車が走り去るのを見送った後で、香穂子は家に入る。 リングは包装のままにしておこうと思うが、誘惑には勝てない。 やはり大好きなひとのプレゼントは威力が違う。 香穂子は思い切ってパッケージを開けて指環の入ったジュエリーボックスを開ける。 「…綺麗…」 吉羅は余り高価ではないと言ってはいたが、花をモチーフにしたダイヤモンドが堂々と輝いているのが解る。 本当に綺麗で、うっとりと見つめてしまう。 リングをはめると、何だか幸せな気分になれた。 指環をしていると、吉羅の最愛のひとになったような気がして、嬉しかった。 指環をはめながら、吉羅には見せることはないだろうと、切なく予感していた。 |