*誘惑のゆくえ*

11


 吉羅の言葉が頭のなかでリフレインする。
 声が蘇る度に、香穂子は緊張の余りにこころをときめかせる。
 甘い感覚に全身が蕩けてしまいそうだ。
 このまま吉羅に“イエス”と言ってしまいたくなる。
 だが言えない。
 イエスと言ってしまえば、また辛さが募るのではないかと思うからだ。
 愛人として囲われるよりも、恋人としてそばにいたい。
 施しを受けるのではなくて、お互いの立場が対等でありたいと思う。
 だからこそ、ここで吉羅の条件総てを受け入れることが出来ないのだ。
 香穂子は溜め息を吐く。
 気持ちは昨日よりもずっと薔薇色に輝いていた。

 絶対に手に入れる。
 そう誓ったからなのか、吉羅は毎日のように香穂子に声を掛けてくる。
 本当に愛されているのではないかと、錯覚してしまいそうだ。
 だが違うのは解っている。
 吉羅は愛人として香穂子をそばに置こうとはしてはいるが、恋人としての対等関係は望んでいないのだから。
 吉羅にあるのは所有欲だけだ。愛じゃない。
「香穂子、食事ぐらいは一緒にどうかね?」
 吉羅の誘いを何度も断ることが出来なくて、香穂子はにっこりと苦く笑う。
「…判りました。何度も断るのは失礼だと思いますから、今夜はご一緒します」
「有り難う」
 吉羅は薄く笑うと、香穂子の手をエスコートするように握り締める。
 その強さに、甘い疼きが全身を駆け抜けた。
 吉羅に抱かれた夜のことを思い出してしまい、何処か切ない気分になった。
 ああして愛に満ちた情熱的な夜は、もう訪れないだろう。
 だからこそ切ないのだ。
「…アンサンブルを聴かせてくれるレストランがあるんだ。行こうか」
「はい」
 アンサンブルを生で聴かせてくれるなんて、こんなにも魅力的なレストランはない。
 香穂子は、今夜だけでも恋人気分に浸れたらと、思わずにはいられなかった。

 吉羅が連れていってくれたレストランは、落ち着いたロマンティックが溢れていた。
 そこで吉羅にエスコートをされると、甘いロマンス小説でも読み耽った気分になる。
 何を頼んで良いか分からなくて、結局は吉羅に総てを任せてしまった。
「私は車だからアルコールは飲まないが、君は?」
「アルコールはいらないです。少しは飲めますが、何処が美味しいのか分からなくて…」
「美味しいというよりは、心地好く酔っ払ってしまいたいからじゃないのかね」
 吉羅はゆっくりとしたリズムで呟くと、香穂子を見上げた。
 吉羅暁彦は極上のアルコールなのかもしれない。
 こんなにも甘く心地好く酔っ払えるアルコールは他にない。
 吉羅と他愛ないクラシック談義に花を咲かせていると、本当に時間はあっという間に過ぎてしまう。
 それはきっと吉羅のマジックだ。
 結局は、吉羅のそばにずっといたいのだから。
 デザートの時間になり、吉羅は香穂子を見つめると、スッと小さな包みを出してきた。
「私の申し出は、よく考えてくれたかね?」
「…私は“愛人”なんて不安定な立場が嫌なんです…。ただそれだけです。確かに、生きて行くために、あらゆる仕事をしているのは確かですが、だからといってあなたに囲われるのは嫌なんです。私は私で自立していたいんです。総てをあなたに託すことは、寄り掛かることは、私には出来ません…」
 香穂子は素直に自分の気持ちを吐露する。
「…君を総てにおいて支配したいわけじゃないよ。私としてもね…。ただ、君とはこうして毎日のように逢いたい。ただそれだけだ」
 吉羅は香穂子に包みを渡す。
「これは?」
「リングだ。約束をしてあげるものではないが、受け取って欲しい。私を受け入れてくれるならば、そのリングをはめて逢いにきて欲しい。君にぴったりの筈だ。眠っている間に、サイズを計ったのだからね」
「有り難うございます…。だけど…私…」
 香穂子は唇を浅く噛むと、そっと俯く。
 約束も何の意味もない指環。それを受け取るわけにはいかないのだ。
 吉羅を愛している。いや、愛してしまったが、だからこそ受け取ることなど出来ない。
「受け取ることは出来ません…。私…」
「はめなくても良いから、受け取ってくれたらそれだけで良い。気持ちが変わったなら、指環をはめてくれ。それほど高価なものではないから、君も構えなくて構わない」
「…吉羅さん…」
「デザートを食べたら送ろう。本当は君と一緒に過ごしたいところだが、そこまではまだ準備が出来てはいないだろう…?君のこころは…」
「…はい…」
 このまま吉羅に抱かれたら、ズルズルといってしまいそうな気がするから嫌なのだ。
 愛人のままで、陽にあたる関係でないままで一緒に過ごすなんて、香穂子には考えられなかった。
 いつか他の誰かと吉羅が結婚してしまった時に、惨めになってしまうだけだ。
「暁彦さんではありませんか?」
 デザートを食べ終わる頃、美しい女性がテーブルにやってきた。
 香穂子が顔を上げると、先日のパーティで見掛けた女性がにっこりと微笑んで立っていた。
 品の良く美しい女性は、吉羅と同じ世界に住んでいる。
 香穂子よりもずっと吉羅の妻に相応しい。
 こんなにも美しい女性がそばにいるのだから、愛人なんて必要ないのではないかと思う。
「…あら、この間のヴァイオリニストの方ね? 素晴らしい演奏だったわ。とても良かったですよ」
「有り難うございます」
 にっこりと微笑まれて、香穂子は立ち上がって礼を言った。
 ヴァイオリンの演奏を褒めて貰えるのは、香穂子にとっては何よりも嬉しいことなのだから。
「暁彦さん、また明日お願いします」
「ああ。解った」
 吉羅には妖艶な笑みを浮かべた後、一瞬ではあるが香穂子を侮蔑するような笑みを瞳ににじませる。
 それを香穂子は見逃さなかった。
 いつも品良く、誰よりも優しさを滲ませている女性であるのに、唇に浮かんだ笑みは、何処か冷たい。
 吉羅はそれに気付いてはいないようで、いつものように接している。
 吉羅にはきっと見せない顔なのだろう。
 その顔を見て、香穂子は何処か切なくなった。
「ではヴァイオリニストさん、また…」
「はい…」
 香穂子は頷いたものの、最後まで頷くことが出来なかった。

 食事が終わり、今夜は素直に送ってくれる。その気遣いが香穂子には嬉しかった。
「もし、私を受け入れる気になったら、そのリングを着けて私に見せてくれ」
「…はい…」
 リングは嬉しい。
 大好きなひとにリングをプレゼントされて、喜ばない女はいないだろう。
 嬉しいが、複雑な気分だ。
 吉羅の愛人になると宣言するようなものだからだ。
 それは余りにも切ない。
 香穂子は、吉羅から貰った包みを持ったまま、暫くじっとしていた。
 吉羅の車が走り去るのを見送った後で、香穂子は家に入る。
 リングは包装のままにしておこうと思うが、誘惑には勝てない。
 やはり大好きなひとのプレゼントは威力が違う。
 香穂子は思い切ってパッケージを開けて指環の入ったジュエリーボックスを開ける。
 「…綺麗…」
 吉羅は余り高価ではないと言ってはいたが、花をモチーフにしたダイヤモンドが堂々と輝いているのが解る。
 本当に綺麗で、うっとりと見つめてしまう。
 リングをはめると、何だか幸せな気分になれた。
 指環をしていると、吉羅の最愛のひとになったような気がして、嬉しかった。
 指環をはめながら、吉羅には見せることはないだろうと、切なく予感していた。



Back Top Next