10
いつもの日常に戻っただけだ。 吉羅のいない日常が、香穂子にとっては当たり前であったのだから。 それに戻っただけなのだ。 楽器店での仕事を終えた後、ヴァイオリンのレッスンをし、掃除の仕事にいく。 いつもと同じだ。 何が変わったというのだろうか。 何も変わらないはずだ。 香穂子が職場に行くと、いつものように清掃チーフが声を掛けてきてくれた。 「日野さん、いつものように下の階を中心にお願いするわ。役員室はしなくて良いから。CEOは当分出張で戻っては来られないから」 「はい」 ホッとしたのか、それともがっしりとしたのかは、自分自身にも解らない。 ただ、吉羅がクビにしなかったことを感謝している。 香穂子は淡々と掃除をすると、いつものような時間を過ごし始めた。 あれから二週間、香穂子は日常に戻っていた。 未だに吉羅につけられた心は、酷い傷に支配させてはいるが、それでも前を見て歩いていかなければならない。 眠れないし、涙脆くもなる。 だがそこを必死になって堪えていた。 香穂子が掃除婦として出勤をすると、チーフから意外過ぎることを告げられる。 「明日からCEOが戻って来ます。日野さん、明日からあなたも役員室の掃除に戻って下さい」 役員室を再び掃除をする。 そんなことは出来ない。 吉羅と再び顔を合わせる気はないのだから。 「…チーフ、私…、役員室の掃除をお断りしてはいけないでしょうか? …掃除は慣れているほうがやりやすいんです。だからお願いします」 香穂子が深々と頭を下げると、チーフは困ったような顔をした。 「…しょうがないね…。あなたがそう思うならね…。判りました。あなたを以前のフロア担当に戻します。役員室は男性スタッフに担当して貰いましょう」 「有り難うございます」 もう吉羅の顔を見るのが辛くてしょうがないから。もうあんな想いをしたくはなかった。 吉羅には二度と逢いたくない。逢わないほうが良い。 なのにこころは吉羅を深く愛している。 吉羅を求めて瞳はいつも探している。 夜も眠れなくて不眠症になってしまっているほどに、吉羅を深く求めて、愛してしまっているのに、傷つくのが 怖くて、一歩先を踏み出せないでいた。 だからこそもう逢わないほうが良い。 いくらこころが深く吉羅を求めていたとしても、刻みつけられた傷は、早晩癒えるものではないから。 だからもう逢わないと決めたのだ。 香穂子は今夜も掃除を淡々と行い、自分のテリトリーをきちんとこなした。 眠れないから、こうして掃除をしているのが良い。 気が紛れて、吉羅のことや吉羅から受けた仕打ちを忘れることが出来るから。 香穂子は早くここ以外のところで掃除の仕事を探さなければならないと思いながら、今夜も仕事を終えた。 ここには想い出が多すぎる。 痛くて切ない恋の想い出が本当に多いから。 疲れても眠れないから、今夜は内職でもしようかと思う。 いつものように従業員口から出ると、そこには吉羅が花束を持って待っている姿があった。 息が止まって、このまま死んでしまうのではないかと思った。 きっと香穂子以外の誰かを見つけたのだろう。 また新しい吉羅の退屈凌ぎの道具なのだろう。 香穂子は無視するように目を伏せると、吉羅の横を無言で通り過ぎようとした。 「待ってくれ、香穂子」 低くて甘い声が響き渡り、香穂子を呼び止める。 だが、立ち止まりたくなくて、香穂子が先を急ごうとすると、いきなり腕を掴まれた。 「あっ…!」 「立ち去りたいのは判る。だが、私の話を聞いて欲しい」 吉羅は話をしてくれなければ放さないとばかりの力で、香穂子の腕を掴んで離さない。 香穂子は息を呑みながら、吉羅を見上げた。 「クビにするつもりで呼び止めたのですか?」 「そんなことじゃない。君には謝りたかったんだよ。それだけだ」 吉羅は香穂子に美しいカサブランカの花束を手渡すと、誠実な色を帯びた瞳を向けてきた。 「話を聞いて貰えるかな? この先に良いカフェがあるんだ。家までは責任を持って送る」 吉羅の瞳を見ていると負けてしまう。否定なんて出来る筈もない。 「…判りました…」 「有り難う。行くか」 吉羅は香穂子より半歩先に踏み出して歩き出す。 「犯人が解った。掃除をしていた五右衛門さんだ」 「五右衛門さんが…!?」 意外な人物の名前に、香穂子は息を呑む。最も怪しくなさそうなひとが、一番怪しかったなんて。 そんなことがあるのかとすら思う。 「勿論、クビにしたのと同時に、インサイダー取引の罪で検察に告発をした。彼は株の高騰を狙った売り抜けをしようとしていたようだ。後で裁かれるだろう」 吉羅は何もなかったかのようにあっさりと言う。 それが癪に障る。 香穂子にはあんなにも酷い怒りようだったというのに、吉羅は五右衛門に対してはあっさりしていた。それが気に食わない。 「私の時はあれ程までに怒ったのに、どうしてそんなにもあっさりしているんですか?」 香穂子が厳しい目線を向けると、吉羅はそれを甘んじて受けるとばかりに、苦々しい笑みを浮かべた。 「それは簡単だよ。君に裏切られたと思ったからだ。男と女の関係になって、私から様々な情報を吸い上げる姑息な手段を使ったと…。…いつもは冷静に判断出来るのだが、君に関してはそれは出来なかったようだ…」 吉羅は瞳の縁を柔らかな紅色に染め上げると、敗北を認めるような何処か迷子のような瞳を向けてきた。 その心許無い瞳に、香穂子は胸を甘く突かれる。 「…香穂子、君とはまた逢いたい。こうして仕事をする時だけに逢うのではなくて、プライベートで。君と私は、特別なものがあると思う。あの夜ほど素晴らしい夜はなかった。君は、本当に素晴らしいよ。あの夜、私たちに起こったことは、特別なことではないかね?」 吉羅は香穂子を官能的なまなざしで見つめると、思い切り抱き締めてきた。 「香穂子…。君がもう働かなくて済むようにマンションを用意し、生活の一切の面倒をみよう。そして、ヴァイオリンをいつでも勉強し、弾ける環境を用意するつもりだ。どうかね?」 吉羅の甘くて低い声に、このまま頷きたくなる。 だが、それは出来ない。 吉羅の出した条件は、“愛人になれ”と、言っているようなものだ。 こういう上流階級の男は、同じ世界にいるよりステータスの高い女を妻にしながら、愛人を持つのが当たり前だと思っているのだ。 妻を愛せないから別の女を愛するなんて、信じられない。 香穂子は蕩けてこのまま頷いてしまいそうだった自分に喝を入れると、吉羅を見上げた。 「話はそれだけですか?」 香穂子が硬い声で言うと、吉羅は頷く。 「だったらお話にはなりません。私はあなたの囲われ者になる気はありませんから」 香穂子がキッパリと言い切ると、吉羅は整った眉を潜めた。 「どうしてかね…?」 「愛人なんて永続的でない関係は、私は望みません。失礼します」 香穂子はキツくぴしゃりと言い放つと、駅の方向に歩き始めた。 「待ちたまえ。送らせてくれ」 吉羅は香穂子がにげられないようにと、強く腕を握り締めてくる。 その強さに受け入れるしかなかった。 無言で吉羅の車に乗り込み、香穂子は家まで送られる。 「有り難うございました」 硬い声で礼を言ったところで、呼び止められる。 「香穂子、私は断られることには慣れていない。君がイエスと言うまで、何度でもチャレンジする。覚悟しておきたまえ」 吉羅は香穂子に挑戦するかのように言うと、車を出した。 |