*誘惑のゆくえ*


 幸せで堪らない今までに知らなかった快楽。
 香穂子は溺れてしまうような心地好さに、身を任せていた。
 たゆたゆと揺られながら、香穂子は目をうっとりと開いた。
 吉羅が輝く程に艶やかに瞳に映る。
「有り難う、香穂子」
「暁彦さん…」
 香穂子がうっとりとその名前を呼ぶと、吉羅はチョコレートよりも甘い微笑みをくれた。
「…君は本当に素晴らしいね…。私はずっとそばに置いておきたいと思っているよ…」
 吉羅は香穂子を抱き寄せると、背中からヒップに掛けてのS字ラインを撫でてくれた。
 敏感過ぎる肌は直ぐに反応して、香穂子の肌は震える。
「…あっ…」
「君を求め足りない…」
「あっ…! 暁彦さん…っ!」
 香穂子は甘い喘ぎ声を上げると、吉羅の紡ぎ出す快楽に溺れていった。

 何度愛し合ったかは解らない。
「初めてだから無理をさせたくないんだよ」
 そんなことを口では言うくせに、吉羅は際限なく香穂子を求め続けた。
 まだ少女の面影を残した香穂子の女としての扉を開けて、吉羅は征服したのだ。
 疲れ果てて眠る頃には、こんなに心地好い幸せは他にないのではないかと思う程に、幸せな気分に浸りながら眠りに墜ちた。
 今度目覚めた時には、世界は薔薇色に染め上げられているに違いないと。
 実際に、吉羅は新しい光に満ち溢れた世界を、香穂子に見せてくれたのだから。
 こんなにも素敵な世界は他にないのではないかっ思わずにはいられなかった。

「起きるんだ、日野君」
 香穂子は、冷徹な声に現実の世界に呼び戻された。
 先程まで甘い囁きであった筈の吉羅の声が、冷酷で鋭い凶器のようになっている。
 香穂子がゆっくりと目を開けると、こちらの背筋が凍り付いてしまうほどに冷たい吉羅の瞳と遭遇した。
「…あ、あの…」
 無防備だった素肌を、香穂子は慌ててシーツで隠す。
 本能で自分を守らなければならないと、香穂子は強く思った。
「…よくもやってくれたね…?」
 吉羅の冷たい声に、香穂子は訳が分からなくなった。
 吉羅が何を意図しているのかすら、読み取ることが出来ない。
「あ、あの、私…」
「うちの買収計画がすっぱ抜かれて、相手の株が急に上がり始めたんだよ。私が買収をしようとしていた企業は、君が以前掃除婦として働いていた企業でね。君はそこから頼まれて、入り込もうと画策していたんだろう?」
 何を言っているのか、香穂子は意味が分からなかった。
 ただ吉羅が、身に覚えのないことを責め立てていることだけは解った。
「…そんなこと…、私は何も知りません…!」
 これぞ青天の霹靂だ。
「とぼけても無駄だよ。日野君。役員室に無防備に出入りをしていた部外者は、君だけだからね」
 吉羅は冷たく言い放つと、視線だけで香穂子を殺してしまえるのではないかと思う程の冷たい視線を向けてきた。
「日野君、君は本当に計算高いね…。そんな女性には見えなかったが…」
 冷徹な吉羅のまなざしが、ほんの少しだけ揺れる。
 このまなざしに負けてはならない。
 疑われたこと。
 そして何よりも、熱くて甘い夜を否定されてしまったことの切なさが、香穂子の胸を強く乱す。
 今直ぐ泣きたい。
 だが泣くことなんて出来る筈もない。
 泣いてしまえばこちらの負けなのは解っているから。
 だから泣かない。
「…私を誘惑してまで得たかった情報なのかね? 君は今日限りクビだ。二度と私の前に姿を現わさないでくれ」
 まるで死刑宣告のような吉羅の言葉に、香穂子は唇を強く噛み締めると、深呼吸をして吉羅を見上げた。
 凜として毅然とした態度を取る必要がある。
 吉羅が姿を消せば大声で泣くことが出来るから、ここは踏ん張らなければならない。
「お言葉ですが、CEO。私はスパイをした覚えはありません。そんなに疑われるなら、証拠を見せて下さい! 証拠を見せて下さるのなら、退職しません。身に覚えがないのに退職をしたら、私があなたに負けてしまうことになるから…!」
 香穂子は拳を強く握り締めると、吉羅を睨み付けた。
「あなたとは出会わなかったんです。そう思うことにします…。生活の為に掃除の仕事をしていますが、もっとお給料の良い掃除の仕事を見つけるまでは退職しませんから! 私からは!」
 香穂子はキッパリと言い切ると、シーツを巻き付けてベッドから出る。
「私の服は何処ですか?」
「ソファの上にたたんで置いてある」
「どうも!」
 香穂子は奪うように服を手に取ると、足早にバスルームに駆け込んだ。
 涙がこぼれ落ちた。
 だが決して吉羅の前では泣いてやるものかと思いながら、香穂子は腕で涙を拭って処理をした。
 服を手早く着替えた後、香穂子はバスルームから出る。
 すると吉羅が鋭い爪を持つ野獣のような顔つきで電話をしているのが見えた。
 香穂子はそのまま立ち去ろうとしたところで、仕草で「待つように」と合図が出される。
 だがこのまま待っても、吉羅に酷いことを言われるだけだ。
 香穂子はそのまま背中を向けると、堂々と歩いて行こうとする。
 だが吉羅はその後を追いかけてくる。
 香穂子は逃れるように走ると、部屋を出て、エレベーターに飛び乗った。
 まだ心臓がおかしなぐらいに跳ね上がっている。
 エレベーターでひとりになって、ようやく涙が沢山零れた。
 こんなにも強く否定されてしまい、香穂子はもう立ち直れないのではないかとすら思う。
 タイミング良くロビーまでひとりだったから、助かった。
 香穂子はそのまま外国人の集団に紛れてホテルを出た。
 家までは歩いて帰ろう。
 電車に乗って帰るよりも、きっと泣くことが出来るから。
 香穂子は洟を啜りながら、とぼとぼと歩いていった。

 楽器店に戻ると、香穂子の酷い顔を見て、老夫婦たちは驚くと同時に泣きそうな顔になる。
「どうしたんだい!? 香穂子ちゃん!」
 駆け付けてきてくれた老夫婦の顔を見るなり、香穂子は涙が零れる。
 本当に素晴らしい人達だ。このひとたちだけが、今や温かな繋がりだ。
「大丈夫です…。おふたりとも…。今日は休んでも構わないでしょうか…」
「良いよ。ゆっくりおし…」
「今日は誰にも逢いたくはないので、ひとりで部屋にいますね…」
「解ったよ…」
 香穂子は何とか笑顔を老夫婦に向けると、部屋へと向かった。
 鍵をかけてひとりになり、また涙が沢山出てくる。
 掃除の仕事を今日だけは出来ない。
 もうクビになっているかもしれないが、念の為に連絡をしておいた。
 すると「お大事に」という優しい言葉を貰えたので、香穂子はホッとした。
 まだクビにはなっていないようだ。あの冷酷な吉羅暁彦のことだから、直ぐに手配をすると思っていたのだ。
 だが実際には手配をしていなかったらしい。
 きっと仕事が忙しかったからだろう。
 香穂子は、明日から仕事を探さなければならないと思いながらも、膝を抱えて悶々としていた。
 胸が痛い。
 張り裂けそうになるぐらいに痛くて、泣きそうになる。
 吉羅のことを思い出しては、胸の痛みに涙を零した。
 躰で愛し合う前ならば、これ程までに後悔はしなかっただろう。
 香穂子は洟を啜りながら、額を何度も膝の上につけた。
 結局は、時間が麻痺をしたまま、朝までずっと痛みに堪えて、泣き続けていた。

 今日からは生まれ変わったのだ。
 あれだけ泣いたのだから、もう吉羅暁彦には、何の未練もないはずだ。すっきりしたはずだ。
 今日からまた新しい気分で成長していければ良いと、香穂子は前向きに考えることにした。



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