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吉羅との生活が始まった。 自分の寝場所がないので、吉羅がたまに仮眠の時に使っているらしい豪奢なソファベッドに寝具を置いて 使用しようとすると、制止されてしまった。 「君の寝場所は、私の隣だ。ベッドを別にする気はないからね」 吉羅はピシャリと言い切ると、香穂子を抱き上げて半ば強引にベッドへと向かう。 嬉しいやら恥ずかしいやらで、香穂子は頬を紅に染め上げた。 ベッドに寝かされて、そのまま離さないとばかりに抱き締められる。 「私たちは一緒に暮らすのは、こうして一緒にいたいからではないかね?」 「はい」 吉羅といつでも一緒にいたいという願いは、香穂子も同じだ。 だからこそこうして一緒に暮らすことにしたのだから。 「…遠慮をしているのかもしれないが…、それはお門違いだよ。遠慮はしないでくれ。私も君には遠慮はしないから」 「…はい…」 香穂子が素直に返事をすると、吉羅は嬉しそうに微笑んでくれる。抱き締めてくれる腕にも力が籠った。 「…香穂子、お仕置だな。私と一緒に眠ろうとしなかった罰だ…」 「…暁彦さん…」 香穂子がはにかんで俯くと、吉羅はくすりと笑う。 「…お仕置はたっぷりとしなければならないね」 吉羅は甘い拷問が開始とばかりに、香穂子をしっかりと抱き締めてきた。 唇を重ねられて、燃えるようなひと時に墜落していく。 香穂子はその心地好さに酔い痴れながら、吉羅の“お仕置”を受け入れた。 恋人としても未来の夫としても、吉羅は最高の態度を示してくれている。 香穂子にはそれが嬉しい。 吉羅は香穂子を気遣いながらも、ベッドで過ごす時だけは、気遣いなく愛して来る。 目眩く官能に、香穂子は益々溺れていった。 吉羅の婚約者として、財界のパーティにお披露目される日がやってきた。 プレーンなのにとても美しいシルバーグレーのドレスが用意される。 ヒールは流石に履くことが出来なくて、低いタイプのものを選択した。 髪は豪華にアップされ、香穂子は薄いがとても可憐にメイクをして貰った。 美容師はもちろん、パーティで演奏をした時に香穂子を綺麗にしてくれた男だ。 「香穂ちゃん、益々綺麗になるね。こうやって少しゴージャスにアップしたら本当に妖艶だ」 「有り難うございます」 たとえお世辞であっても、美容師に褒められるのは嬉しい。 「無駄口を叩いているんじゃない。パーティは直ぐに始まるから、急ぐんだ」 「はい」 またあの顔だ。 冷たくて不機嫌な顔は、パーティの時も見受けられた顔だ。 香穂子は、寂しい気分になりながら、手早く支度をした。 お世辞でも構わないから、綺麗だと言って欲しかった。 香穂子は一方通行な恋心を感じながら、吉羅に寄り添う。 吉羅のこころが遠く感じた。 パーティ会場に行くと、誰もが香穂子と吉羅の組み合わせに、驚きの声を上げる。 誰もが意外過ぎる組み合わせだと思っているのだろう。 吉羅は、声を掛けてくる人々に、“婚約者の日野香穂子”と紹介してくれた。 吉羅の言葉自体は、誇らしくて嬉しいものであったが、周囲の冷たい視線が痛い。 「どちらのお嬢様なのかしら。私は帝都銀行頭取のお嬢様とご結婚されるとばかり思っていたわ」 「私も。本当にお二人はお似合いでしたからね」 「本当に。仲も良かったですし婚約したという噂も飛び交っていましたもの」 「なのにどうしてこんなにも若い女性と婚約されたのかしらね?頭取の娘さんのほうが、知性があって余程お美しいのに…」 「子供でも出来たからとか?」 「まあ、嫌ねえ」 女性の嘲笑する声に、香穂子は我慢が出来なくなる。 精神的にかなり辛い。 反論したくても出来なくて震えていると、吉羅がそっと肩を抱いて来た。 「我慢するんだ」 まるで命令するような口調で言われて、香穂子は益々暗い気分になる。 「…はい…」 唇を軽く噛み締めながら、香穂子は泣きそうな気分になっていた。 「少し良いかね? 吉羅君」 立派そうな男性が声を掛けてきて、吉羅は頷く。 「香穂子、少しの間、ひとりでいるように」 「はい。判りました」 こんな会場でひとりになるのが切なくてしょうがない。 吉羅がいってしまうと、まるでそのことを伺ったように、頭取の娘が近付いて来た。 その表情を見て、香穂子は背筋を凍らせる。 いつもの可憐で清楚な彼女からは想像出来ない顔だった。 「…日野さん、暁彦さんと婚約したそうね。先ずはおめでとう、と、言っておくわ」 「有り難うございます…」 彼女の視線が恐ろしくてしょうがない。 まるで毒グモのような恐ろしい執念があるように感じられる。 「…どうやって、暁彦さんをたらしこんだの? 私たちは婚約寸前だったのに。あなたが身籠もらなければ、ここで私が婚約者として紹介されるはずだったのよ…!」 彼女は強く言いながら、執念と情念を声に滲ませる。 「…日野さん…。あなたは暁彦さんの妻には相応しくないのよ? あのひとには私のような女が相応しいのよ。解っている!?」 そんなことは百も承知だ。 一番自分が解っているつもりだ。 そこを鋭い剣で突き上げられるのは、何よりも痛い。 香穂子は表情を強張らせながらも、決して挑発に乗ってはならないと我慢した。 正直言ってかなり辛い。 苦しいといっても良い。 だが、本当に吉羅が好きだったのだろう彼女の気持ちが、解らないわけではなかった。 「日野さん、二億出すから中絶をしなさいよ。それかそれを手切金にして姿を消すか…。それだけあれば、生活は出来るでしょう?」 意地の悪い言葉に、香穂子は胸が悪くなる。 これほどまでに辛い言葉は、他にないのではないかと思った。 香穂子が顔色を悪く立ち尽くしていると、彼女は不意に足を引っ掛けてくる。 「…あっ…!」 このまま躓いて倒れてしまうと思った時だった。 「おっと…!」 誰かの腕が伸びてきて、香穂子の躰を抱き留める。 「大丈夫かね!?」 低い焦るような声に香穂子が顔を上げると、そこには怖い顔をした吉羅がいた。 「ったく、大事な躰なのに君はなんて不注意なんだ…」 吉羅は苦々しく呟くと、香穂子を咎めるように睨み付けてくる。 なんて痛い瞳だ。 こころがバラバラになって千切れてしまいそうだ。 香穂子が目を伏せると、吉羅は躰を強く引き寄せた。 「こんばんは、暁彦さん」 「こんばんは」 頭取の娘だからだろうか。それとも愛しいひとだからだろうか。 吉羅の瞳も声もこの上なく優しかった。 「ご婚約おめでとうございます」 「有り難う」 見つめ合うふたりを見ていると、まるで愛し合っているように見える。 それが事実なのかもしれない。 香穂子はそう思うと、益々胃が強張るのを感じた。 「香穂子、彼女は優しくて頼りになる。何かあったら相談するんだ」 吉羅の言葉に、香穂子は直ぐに返事をすることが出来ない。 心の中では、絶対に相談はしないと強く思っていた。 「香穂子?」 吉羅は怪訝そうに香穂子の顔を見てくる。 吉羅は彼女をかなり信頼しているのだ。 「…判りました…」 「私も出来るだけサポートするわ」 にっこりと微笑む彼女は天使のように見えて、何処か恐ろしさをたたえていた。 吉羅に何を言われたとしても、香穂子は決して彼女にだけは相談しないし、協力を求めないと思う。 吉羅に腰を抱かれているのに、ひどく孤独だった。 |