前編
最近、吉羅はとみに忙しい。夏休みに入ったから学校で逢えないのはもちろんのこと、仕事が忙し過ぎて、電話すらもくれない。 常にドキドキして、いつも携帯電話を握り締めていた香穂子も、流石にその手から離してしまった。 溜め息が零れ落ちてくる。 相手は社会人で多忙でセレブリティだから、なかなか逢えないのは理解している。 だが、こんなにも連絡がないと、正直言って、不安にもなるし、溜め息もたくさん零れ落ちる。 いつ吉羅からデートの誘いが来ても良いように、スケジュールを空けていたというのに、全く音沙汰がない。 「…忙しいのか…。それとも…」 吉羅は大人で、しかも誰もが息を呑むほどの雰囲気と麗しさを持っている。言い寄ってくるのは、いつも極上の女ばかりだ。 それゆえに不安にもなる。 嫌われたのかもしれないと。飽きられたのかもしれないと。 所詮は、珍しいから付き合ったのかもしれないと。 香穂子は携帯電話を睨み付けると、軽く転ばした。 携帯電話が鳴り響き、香穂子は慌てて手を伸ばす。 着信音で誰からが解る。吉羅暁彦。 吉羅の電話を受ける時は、ダラダラしていてもいつも正座になってしまう。 深呼吸をしながら、ドキドキして電話を取る。 「…はい、香穂子ですけれど…」 「私だ、香穂子。今、時間は大丈夫か?」 「もちろんですっ!」 香穂子は先ほどまでの不安を消し去るような明るい声を出した。 「明日、ようやく休みが出来たんだが…、一緒に出掛けないか?」 香穂子は嬉しくてダンスをしそうになる余りに、思わず言葉を失っていた。 「香穂子? 何か不都合でもあるのか?」 「いいえっ! 行きます! 明日、出掛けましょう!」 香穂子が勇むように言うと、電話の向こうの吉羅の声が柔らかに弾む。 フッと艶やかな笑みが零れるのが聞こえ、香穂子は近いところでその声を聴きたくなった。 「…だったら…そうだな…、夏らしいところに行こうか」 「涼しげなところが良いですね。プールとか…」 香穂子は何も考えずに思い付いた場所を言ったが、電話の向こうの吉羅が一瞬、絶句したような気がした。 「…そうだな…。ホテルの会員制のプールがある…。そこなら安心して使えるだろう。解った、行こう」 「はい」 「明日、十時に駅前に迎えに行くから待っていてくれ…」 「はいっ!」 「では、まだ仕事が残っているので、これで…」 「お仕事頑張って下さい」 「ああ」 吉羅から電話が切られる。そのツー音ですらもずっと聴いていたくなるほどに、耳元には深みのある甘い声がリフレインする。 甘くて苦しくなるほどに、吉羅の声が好きで、聞こえなくなったことに泣きたくなる。 何時までも囁いて欲しかった。 余韻に浸った後で、香穂子は早速明日の準備を始める。 とっておきのバスタオル、とっておきのパーカー、とっておきのローション。そして、とっておきの水着。 夏休み前に、天羽と一緒に買いにいった一品だ。 去年までは可愛い路線のものを買っていたが、今年は背伸びして大人びたものを購入した。 白い上品に男を挑発するようなビキニ。 似合わないと思ったが、天羽が凄く似合うからと絶賛してくれて、買ったものだった。 だが、肝心の吉羅はどう思ってくれてるのだろうか。 これを着て、みっともないと思わないだろうか。 これを見て、軽蔑をしないだろうか。 それだけが気掛かりだ。 もし冷たい反応になったら、パーカーを着て隠しておけば良い。 香穂子は水着をギュッと抱き締めると、深呼吸をぎこちなくする。 どうか。どうか。吉羅が気に入ってくれますように。 それだけを深く祈っていた。 翌日、サマーワンピースを着て、少しでも大人っぽく見せるために、髪を結い上げた。 約束の場所に立って、吉羅が来るのを待ち構える。 デートをするたびにいつも緊張してしまう。吉羅を待っている瞬間、瞬間に、女を試されているような気がしたから。 程なく、吉羅の愛車であるフェラーリがやってきて、助手席が開く。 「…待たせたな。乗りなさい」 「はい、吉羅さん」 香穂子は素直に頷くと、吉羅の愛車に乗り込んだ。 「香穂子、君はいつまで経っても、私を“吉羅さん”と呼ぶんだね…。いい加減に、“暁彦”と呼んでくれないのか…?」 「何だか…名前を呼ぶとドキドキし過ぎてしまうような気がするんです…」 香穂子ははにかむように言うと、吉羅はハンドルを持たない手を使って、一瞬、抱き寄せてくる。 「…私とふたりきりのときは、ちゃんと練習をしてもらわないと…困るね」 「ど、努力はします…」 「頼んだ」 ふたりを乗せた車は、ゆっくりとホテルの駐車場へと吸い込まれていった。 更衣室で水着に着替えていると、何だか気後れをしてしまう。 周りにはいかにもセレブリティな女性ばかりで、誰もが品の良い艶と美しさを持っている。 それに比べて自分はどうなのだろうか。 子供過ぎて、このスペースでは完全に浮いてしまっている。 「先ほど、吉羅様をお見掛けしましたわ」 名前を聴いてドキリとする。 「吉羅様をひと目拝見することが出来るなんて、目の保養になりますわ。あの艶のある美しい肉体と、麗しいお顔を拝見出来るなんて」 噂話をしている女性たちは、うっとりと吉羅のことを話している。それはまるで、俳優を噂するような雰囲気がある。 「今日は念入りにしなければなりませんね」 「ホントに」 ここにいる女性たちは、誰もが綺麗なのに、更に磨きをかけられてしまったら、香穂子は太刀打ちが出来ない。 改めて自分の姿を確認すると、まるっきりの子供にしか見えない。 いくら努力をしても追いつけない。 涙が零れてしまいそうになるぐらいに悔しかった。 パーカーを着て、パレオを巻いて、香穂子は見えないようにガードをする。 誰よりも子供の躰を隠すのには、本当にこれ以外の方法なんてあるはずもなかった。 プールサイドに出ると、直ぐに吉羅がやってきた。 誰もが吉羅に釘付けになっている。 パーカーを羽織っているとはいえ、スポーツジムで鍛えた肉体は惚れ惚れするほど美しく、細身なのに均整が取れた筋肉を持つ、包容力のある躰をしていた。 誰もが夢見るスタイル。女なら、あの胸に思い切り抱き締めて貰いたいと願うだろう。 見つめるとドキドキが激しくなり過ぎるから、そんなことは出来ない。 「香穂子」 名前を呼ばれて顔を上げると、吉羅の不機嫌なまなざしとぶつかる。 胃が痛くなるほどに鋭くも冷たい瞳に、香穂子は先ほどまでの緊張が苦いものに変わるのを感じた。 「…私から離れないように…」 「…はい」 素直に返事をするものの、香穂子は目がツンと痛くなるのを感じる。 やはりひとりには出来ないほどに、気に入らない何かがあるのだろうか。 不安で堪らなくなっていると、吉羅に手を強く握られてしまった。 優しい痛みに、香穂子のこころは満たされて行く。 そこには表情とは正反対の温もりがあり、香穂子を不安から解き放ってくれた。 「吉羅様、こんにちは」 先ほど更衣室にいた女性がここぞとばかりに近付いてくる。 「吉羅様、姪っ子さんとご一緒でいらっしゃいますか? 宜しければ私達とご一緒致しませんか?」 姪。 そうしか見えない自分に情けなくなって吉羅を見ると、まるで冷たい軽蔑を送るように女たちを見ていた。 「…彼女は私の大切なひとだからね。ふたりだけで過ごしたいんだ。失礼する」 吉羅はいつもよりも更に冷酷な声で呟くと、香穂子の手を引いて女たちの横を通り過ぎる。 幸せ過ぎて気絶しそうだった。 |