*水辺の恋*

後編


「あ、有り難うございます」
 香穂子はときめきゲージをマックスにさせて、横にいる吉羅を見つめる。
「当たり前のことを言ったまでだ。礼を言うことはない」
「はい、だけど、有り難うございます」
 ストレートに何でもないことのように言われると、余計にときめきが溢れてくる。
 手を繋いで貰い、エスコートされるようにプールサイドを歩くのが、何よりも幸せだった。
 足が地についていないような気がする。
 ふわふわとしている心地が、とても良かった。
 プールサイドにいるだけで、吉羅は一向に入ろうとはしない。
「プールには入らないんですか?」
「君は入りたいのか?」
「折角、遊びに来たんだすから」
 香穂子が言うと、吉羅はそのスタイルを眺めてくる。
 余り良くないし、似合っていないのは解っている。
 クールな吉羅の瞳で見つめられると、余計に不安になってしまった。
「…プールサイドにいても、充分楽しめるだろう」
 まるで香穂子と泳ぐのが嫌だとばかりの言葉を呟かれてしまい、こころが痺れるように痛む。
 やはりこの水着姿はあまり気に入らなかったようだ。
 しょうがない。いくら大人びたスタイルの水着を着たとしても、所詮は子供の枠から出ないのだと思うと、泣きそうな気分になった。
「…そうですね。プールサイドで楽しみましょう…」
「ああ」
 吉羅の言葉に傷つきながらも、香穂子は嫌われたくない一心で笑顔で答えてしまう。
 こんな切ない笑顔なんて、したくはなかった。
 ふたりでプールサイドでのんびりとしていると、ゴージャスだという言葉がピッタリの凜とした女性が、こちらを歩いてきた。
「ご機嫌よう、吉羅さん」
「ああ、こんにちは」
 吉羅はいつもよりは僅かに笑みを瞳に滲ませながら、女性に挨拶をした。
「プライベートでお越しなのよね。お邪魔だったようね。私は半分プライベート、半分ビジネスってところだけれど。少しだけお時間を貰って良いかしら。星奏学院のPR展開の話なんだけれど…」
 ちらりと香穂子を見つめてきたまなざしには、明らかに“邪魔”だと言われているような気がする。
 視線で心臓をひとつきされたような痛みを感じ、香穂子は益々この場所に居辛くなった。
 吉羅といえば、女性と熱心に話したいような雰囲気を漂わせている。
 このままここで待つのはいたたまれなくて、香穂子はそっと席を外した。
 吉羅に怒られる覚悟を決めて、プールに飛び込んだ。
 プールの水はひんやりと肌にまつわってとても気持ちが良い。
 香穂子は痛い想いを忘れ去るかのように、泳ぎに没頭した。
 余り泳げるほうではないけれど、こうしてたまに自分のペースで泳げるのが良い。
 快適にひとりで泳いでいると、先ほど、吉羅に言い寄ろうとしていた女性たちが見えた。
 香穂子は無意識に女性たちを回避しようとしたが、まるで罠をはられたように、上手く誘いこまれてしまう。
 何かを企んでいるようなまなざしに、香穂子は寒気を覚えた。
「…吉羅様に見放されてひとりなのね。お気の毒ね」
 鼻で笑うように言われたのが気持ち悪くて、香穂子は女達から逃げようとした。
「…あっ…!」
 方向転換したところで、誰かに足を引っ掛けられたような気がした。
 余り泳ぎが上手くない香穂子は、それをうまく交わすことが出来ずに、ぶくぶくと沈んでしまう。
 足が上手く動かない。
 酸素が上手く取り入られない。
 このままプールの底に沈んでいくのだろうか。
 そう思った瞬間、誰かがプールに飛び込む派手な水飛沫の音が響き渡った。
 薄れて行く視界に映り込むのは、吉羅。まるで水中の騎士に見える。
 余りに綺麗で、こんな姿を見られたら幸せだと思ったところで、手を差し延べられた。
 香穂子がその手を取るようにゆっくりと自らの手を伸ばすと、しっかりと受け止めて貰えた。
 逞しい優しい手。
 そのまま抱き寄せられると、香穂子は安堵する余りに闇に引き摺り込まれる。
 吉羅の腕のなかでこのまま眠っていられたら良いのにと思った瞬間、明るい場所に出た。
 吉羅は鍛えられた腕の力で、香穂子をプールサイドへと連れていってくれる。
 ふらふらと意識も視界も断片的で、ぼんやりとしていると、吉羅は香穂子を抱き抱えて、プールから上がってくれた。
「香穂子? 香穂子?」
 いつもはクールな吉羅の声が、今日は揺れているような気がする。
 心配そうな声に導かれて瞳を開けると、そこには安堵と怒りを滲ませた吉羅の瞳があった。
 水を滴らせる吉羅は、その名前と同じようにキラキラ輝いている。
 とても綺麗過ぎて、香穂子のこころは締め付けられてしまいそうになるぐらいに、幸せが圧迫してきた。
「…大丈夫か?」
「あ、有り難うございます…」
 足にはまだ力が入らないが、なんとか立つぐらいは出来る。
「大丈夫ですから…、下ろして下さいませんか…?」
 香穂子が下りようとすると、吉羅は余計に力を込めて抱き上げてきた。
「少し休んだほうが良い、君は…」
「だ、大丈夫ですから…」
 言いながらも、香穂子の声はフェイドアウトしていく。
 吉羅の瞳が有無を言わせないとばかりに、鋭く睨み付けてきたからだ。
「…はい…」
 素直になるしかなくて、香穂子は溜め息を吐きながら頷いた。

 吉羅は、香穂子の躰にパーカーを掛けてくれ、抱き抱えたままで、客室へと向かう。
 流石に恥ずかしさとときめきが交差して、ドキドキしてたまらなかった。
 客室に入ると、吉羅は香穂子を下ろして、バスタオルを手渡してくれた。
「これで躰を拭きなさい」
「有り難うございます…。あの…、今日はすみませんでした…。台無しにしてしまって…」
 香穂子はバスタオルで躰を拭きながら、うなだれる。
 吉羅は溜め息を吐くと、髪を気怠くかきあげた。
 きっと怒っているに違いない。
 デートをぶち壊しにしてしまうようなことをしてしまったのだから、しょうがない。
「シャワーを浴びて来なさい。服はこちらに持って来て貰うから…」
「はい…」
 これ以上何を言っても、やってしまったことは消し去ることが出来ないのだからしょうがない。
 香穂子は素直に従うと、シャワーを浴びに行った。
 シャワーを浴びている間、嫌われたらどうしようだとか、そんなことばかりぐるぐると考えてしまう。
 きっと呆れ返ったに違いないだろう。
 パウダールームが開いた音がしたかと思うと、直ぐに立ち去る音がした。着替えを持ってきてくれたのだろう。
 香穂子はバスルームから出ると直ぐにワンピースに着替えて、パウダールームから出た。
 入れ替わりに吉羅がバスルームに入る。
 香穂子は椅子に腰を掛けるなり、肩を落とした。
 また子供染みた失敗をしてしまった。
 早く大人の女性になりたいと足掻く度に、子供以下の失敗を繰り返す。
 しかも今回は危うく溺れてしまいそうになった。
 今度こそは嫌われてしまったかもしれないと、哀しく思っていると、吉羅がバスルームから出て来た。
「香穂子、少し休んだほうが良い」
「大丈夫ですから」
「いいから、少し横になりなさい。溺れかけた人間は、少し休んだほうが良い…」
「…はい…」
 まるで保護者のような吉羅の言葉に、香穂子は諦めて従うことにした。
 ベッドに横たわると、吉羅がそのそばの椅子に腰を掛ける。
 香穂子の手を握ると、吉羅はまるで祈るように頭を垂れた。
「…今日は済まなかった…」
 吉羅は切なそうに謝ると、香穂子に許しをこうような表情をした。
「私のほうが悪いのに…」
「君とプールサイドにいると決めたのに、つい仕事の話をしてないがしろにしてしまった。反省している」
 吉羅は心細い小さな子供のように呟くと、香穂子の手を更に強く握り締めてくる。
「私も勝手に行動をしてごめんなさい…」
 香穂子は頭を垂れた後、吉羅に穏やかに微笑んだ。
「だから私達はお互い様です。ね?」
「香穂子…」
 吉羅は珍しく泣き笑いのような表情を浮かべると、香穂子に抱き着いた。
 香穂子は吉羅の髪を撫でながら、気持ちが甘い落ち着きで満たされるような気がする。
「だけど一緒に泳ぎたかったです。暁彦さんは、いつまでもプールサイドにいるから」
 香穂子が残念そうに言うと、吉羅はばつが悪そうに瞳の周りを紅くさせる。
「…それは…、君の水着姿を他の男には見せたくなかったからだ…」
「え?」
 吉羅の顔を覗き込むと、照れ臭さくて今にも逃げ出してしまいそうだと言っているように見えた。
 明らかに嫉妬心と独占欲に香穂子は嬉しくて嬉しくてしょうがなくなる。
「似合ってないと思ってるって、考えてました」
「君はとても綺麗だったよ」
 吉羅は香穂子の躰を強く抱き締めると、そのままベッドに潜り込んで来る。
「独占させてくれ。君を」
「はい…」
 唇を重ね合わせふたりだけの世界に向かう。
 ふたりが紡ぐ甘い世界に、香穂子は墜落していった。



Back Top