前編
吉羅と久しぶりに逢うことが出来る。 それだけで香穂子はドキドキしてしまい、どうしようもないぐらいに幸せな気分になる。 こんなに甘くて苦しい緊張は久方振りだ。 吉羅に相応しいように、清楚で大人なスタイルに纏めてきた。 背筋を伸ばして、待ち合わせをしているカフェで待つ。 いつものように、レアチーズケーキとミルクティーの組み合わせだ。 最近は吉羅も忙しく、香穂子も音楽コンクールなどがあり、満足に顔を合わせることが出来なかった。 だからこそ、今日は思い切りお洒落をしてのんびり楽しみたいと思う。 桜の季節でもあり、吉羅とふたりで美しい季節を堪能したかった。 香穂子が幸せな気分でミルクティーを飲んでいると、ひと目の前が陰った。 「…おひとりですか?」 「…え…?」 顔を上げると見ず知らずのひとが立っている。 「知人を待っているんですが…あ」 香穂子が答えている最中に、吉羅がやってきた。 「…失礼…。彼女と待ち合わせをしているものでね」 吉羅はさらりと言うと、香穂子の目の前の席に座る。 男性は驚いたように香穂子と吉羅を見た後、立ち去ってしまった。 「全く油断も隙もないね」 吉羅はピシャリと言うと、コーヒーを注文した。 「きちんとお断りをしたんですけれどね…」 「全くしょうがない男だ…」 吉羅は呆れ果てたように言うと、やってきたコーヒーに口を付ける。 「暁彦さん、お仕事ご苦労様です」 「有り難う。久しぶりに君と一緒に過ごすことが出来るのが、私には嬉しいよ」 「私もです。有り難うございます」 香穂子はにっこりと微笑むと、ケーキの最後の一口を食べた。 「君とゆっくりと出来るのが嬉しい限りだね」 「はい」 香穂子は幸せな気分になりながら笑った。 「では行こうか。桜が綺麗に見られるレストランがあるんだ」 「はい。楽しみです」 香穂子は笑顔を浮かべると、浮かれるように立ち上がる。 するとついバランスを崩してしまった。 「きゃっ!」 香穂子が思わず声を上げると、吉羅はしっかりと受け止めてくれた。 「大丈夫かね!?」 吉羅に密着されると、鼻孔に官能的なムスクの香りが入ってきて、ドキドキしてしまう。 顔を真っ赤にさせて吉羅を見上げると、相変わらずクールな表情をしていた。 「…しょうがないね…」 「有り難う…ごめんなさい…」 香穂子がシュンとなっていると、吉羅は甘い笑みを浮かべた。 「君が変わらないのは、私も嬉しいよ」 「あ…」 吉羅の甘い言葉に、香穂子はつい真っ赤になってしまった。 吉羅と手を繋いで、柔らかな夕陽を浴びながら、のんびりと歩いていく。 こうしている瞬間が何よりも幸せに感じているということを、吉羅は知っているだろうか。 夕焼けに包まれた桜は、うっとりとしてしまうほどに綺麗で、香穂子はつい見惚れる。 桜色と夕陽色は相性良く混じりあっている。 本当に美しいと思った。 「海外にコンクールやコンサートで出掛けていっても、やっぱり日本の美しさが一番だって、いつも思っているんですよ。本当に綺麗で、びっくりするぐらいに素敵だと思います」 「そうだね。私もやはり日本は素晴らしいといつも思っているよ」 「そうですね。日本は本当に素晴らしいです…」 香穂子はうっとりと空を見つめた後、吉羅を見た。 「…暁彦さん、海外のエージェントから…、ヨーロッパを拠点にしないかと言われているんです」 香穂子はドキドキしながら言う。 どうか。 どうか、吉羅が止めてくれますように。 吉羅が止めてくれたら、横浜を拠点にしようと思っている。 「…香穂子…、君は海外移住を考えているのかね?」 吉羅はいつものようにごくクールに言ったが、手はギュッと強く握り締めてきた。 行くなと、言ってくれているのだろうか。 香穂子は一縷の望みを持って吉羅を見た。 「…日本を再発見するには…、外から見るのもひとつの方法だとは思うけれどね…」 吉羅はあくまで紳士的スタンスを崩そうとはしない。 それが吉羅らしいとは思うが、香穂子はもっと本音が見たいと思う。 言葉はクールなのに、何故だか手だけはしっかりと握り締められている。 「レストランを予約しているから、ゆっくりと歩いて行こうか」 「はい」 吉羅はそれからは、香穂子の海外移住については話題として触れて来なかった。 吉羅は何を考えているのだろうか。 香穂子は全く掴むことが出来ないでいた。 吉羅がエスコートしてくれたレストランは、新鮮な高級食材を使ったフレンチレストランだった。 窓からは見事な桜並木が見える。まさにお花見の特等席と言っても良いだろう。 吉羅はいつもとは全く変わりはなかった。 本当にいつも通りのクールさだ。 桜と極上のフレンチ、そして冷静な大人の恋人。 それだけで充分ではないかと自分で言い聞かせながらも、納得出来ないでいた。 「美味しいですね、やっぱり」 「日本は食材も豊富で味も繊細だからね。とても美味しい仕上がりになっているね」 「はい」 日本を強調するところをみると、やはり日本を拠点にして欲しいと考えてくれていると、思っていても良いのだろうか。 だが、吉羅は言葉でストレートに伝えてはくれていない。それが悔しい。 「そうですね…」 香穂子はただ相槌を打つことしか出来なかった。 桜を見ながら食事をするのはうきうきする。 だが、吉羅がもっと求めてくれたら良いのにと、思わずにはいられなかった。 デザートまでのんびりと食べる。 スウィーツにも詳しい吉羅だからこそ、いつもトータルで楽しめる店を選んでくれている。 香穂子にはそれはとても有り難くて好ましい。 吉羅はいつも、香穂子を楽しませてくれるようなレストランを選んでくれている。 それはとても嬉しい。 吉羅は、香穂子が海外に活躍のフィールドを移したとしても、こうしてふたりで楽しめれば良いと思っているのだろうか。 共に支えあって生きて行くことには、魅力を感じていないのだろうか。 それはとても気になっていた。 甘いデザートを食べ終わると、吉羅は手をそっと握り締める。 ふたりは駐車場まで手を繋いで桜並木を楽しんだ。 「夜桜見物ですね」 「そうだね。桜を見ていたら、心が華やぐのに落ち着くね」 「はい。来年は、こうして日本で桜を楽しむことが出来れば良いと思っています」 香穂子は足を止めて月と桜を眺める。 桜の花の隙間から見える満月は、見事であると言っても良かった。 本当に美しいと思う。 その昔、桜が咲く満月の夜に死にたいと言った雅人がいたが、その気持ちが解る。 「ヴァイオリンを弾くのには、最高の舞台ですね」 「そうだね。今宵は今月二度目の満月、ブルームーンと呼ぶらしいよ…。珍しいから、願い事も叶いやすいらしいよ」 「…願い事…」 今願うこととすれば、吉羅とずっと支えあいながら、そばにいること。 ヴァイオリニストとしてのキャリアも大切ではあるが、それと同じぐらいに吉羅も大切なのだ。 「…暁彦さんには、叶えたい願い事はありますか…?」 「…願い事…。さあ…、秘密かな…? 香穂子、君はいかがかね?」 吉羅は低く甘い声で思慮深く訊いてくる。 願い事なんて、あなたが一番解っているはず。 そう思いながら、香穂子は月を見上げる。 「…私も…秘密ですよ…。知っているのはお月様だけです」 香穂子は月の光のような笑みを浮かべた。 |