後編
吉羅は、ゆっくりと山手の桜並木を歩く。 香穂子も同じ歩幅で歩いていく。 人生に於いても、こうして手を繋いで同じ歩幅で歩いていければ良いのにと、香穂子は思わずにはいられない。 厳かな輝く月の光が目に染みてしまい、香穂子は泣きそうになった。 本当にきらきらと輝いて美しい。 吉羅は駐車場を通り過ぎてもそのまま歩いていった。 「…え? 暁彦さん?」 香穂子が驚いたように声掛けをすると、吉羅はフッと落ち着いた笑みだけを浮かべる。 「…着いてくるんだ。今宵は君をとっておきの場所にお誘いしよう…」 「はい…」 とっておきの場所。 桜が満開の満月の夜だから、香穂子はつい期待をしてしまう。 どれほど素晴らしい気持ちになれるのだろうか。 香穂子は淡くて幻想的な期待を抱いていた。 吉羅は、麗しい洋館が並ぶ通りに入っていく。 このあたりは昔から高級住宅街として広く知られている地域だ。 その中でも、一際ロマンティックな洋館がある。 庭が広そうで、屋敷も大家族にちょうど良いぐらいの大きさだ。 でしゃばらない優美さが滲んだ瀟洒な邸宅だ。 香穂子は思わず魅入ってしまった。 「この邸宅も昼間は公開されているんでしょうか。だったら、昼間に一度見てみたいものですね」 「入ってみるかね?」 吉羅からの申し出に香穂子は驚いて飛び付く。 「入れるんてすか!? だったらこんなにも嬉しいことはないですよ!」 中に入ることが出来るのならば。是非入ってみたい。 吉羅はフッと微笑むと、香穂子に最新式のカードキーを見せてくれた。 「中に入ろう」 吉羅はセキュリティを手早く解除をして、エスコートしてくれる。 「どうぞ、私のお嬢さん」 「有り難うございます」 吉羅にエスコートをされて素晴らしい邸宅に入ることが出来るなんて、夢見心地だった。 中に入ると、庭がのんびり出来るぐらいの手頃な広さで、桜が咲いている。 ここでお花見をすればさぞかし素晴らしいだろうと、香穂子は思う。 ふと奥の駐車スペースに、吉羅の愛車フェラーリが停まっているのが見えた。 「中にも入ってみるかね? マスターベッドルームから見える庭の桜は最高に綺麗だからね」 「はい、見てみたいです」 香穂子は、夜の洋館探索にすっかり夢中になっていた。 洋館に入ると、中は優美かつシンプルなインテリアだった。改装がされており最新式の設備もあちこちで見受けられる。 観光のためというよりは、どちらかと言えば住むためのもののようだった。 「さあ、マスターベッドルームへ行こうか」 吉羅は、香穂子の手をしっかりと握り締めながら、マスターベッドルームへと誘ってくれる。 「いつでも住めそうですね」 「ああ。いつでも住めるよ」 吉羅はさらりと言った後、マスターベッドルームのドア前までやってきた。 不意に吉羅に軽々と抱き上げられてしまい、香穂子は驚いてしまった。 「こうして女性を初めての部屋に入れるのは儀式だからね」 吉羅は大きなテラス窓の前まで香穂子を連れて行って、そこで下ろしてくれた。 「わあ!」 見事なまでの満開の桜と満月が幽玄な美しさを醸し出している。 こんなに麗しい庭を見たことはないかもしれない。 「ここからは、春は桜、夏は花水木、そして薔薇、秋は秋桜と銀杏が、冬は冬薔薇が見られる。小さな世界で四季と月が堪能出来るようになっているんだ…」 「素晴らしいです」 吉羅の心地好いテノールで話を聞きながら、香穂子はうっとりと魅入られるように庭を見つめていた。 「ヴァイオリンを弾くには最高の環境だと思うがいかがかね? 防音がされているから、夜でも心置きなくヴァイオリンを奏でることが出来るよ」 「…暁彦さん…」 不意に吉羅に背後から抱き締められる。首筋にひんやりとした唇を押しつけられて、官能に震えて目を閉じた。 「…願い事をしながら…、君と愛し合いたい…」 吉羅の声が艶やかに官能的に響き渡る。 香穂子は同意を示すために、吉羅に躰の総てを預けた。 吉羅は直ぐにその想いを汲んで、抱き上げてベッドへと運んでくれる。 ふたりで愛し合うには広過ぎるベッドで、愛の世界に突入していった。 吉羅と直に肌を合わせると、本当に気持ちが良い。 幸せな気持ち良さに蕩けてしまいそうになる。 お互いの情熱を交換しあいながら、ふたりは激しく愛し合う。 吉羅はいつにもまして情熱的でかつ支配していく。 吉羅とひとつになった時だった。 いつものように魂を近くに寄せるために、ふたりがより近付く儀式をする。 その瞬間、いつもよりも吉羅の熱が熱くて近かいのを感じた。 ダイレクトに愛情を感じたと言っても良かった。 吉羅をこんなに激しく、こんなにも近く感じるとは思わなかった。 その分、香穂子もまた快楽の渦に巻き込まれて、そのまま溺れていった。 優しいまどろみから目覚めた後、香穂子は傍らで眠る吉羅を見た。 香穂子が海外に行く可能性があるから、あのように激しい愛の行為をしたのだろうか。 行かないで欲しいと言われたら、何処にも行かないのに。 ふと窓の外を見ると、夜明けの薄紫色に空が輝き、桜が清らかに白く輝いているのが見えた。 香穂子は吉羅のパジャマの上を羽織り、窓辺に吸い寄せられるように立った。 夜明けの桜はなんて美しいのだろうか。 泣きそうになりながら桜を眺めていると、不意に背後から抱き締められた。 「…暁彦さん…」 「君はこの庭が相当、気に入っているようだね…」 「本当に綺麗ですから…。暁彦さん、この家は暁彦さんの知り合いの方のものですか? それとも暁彦さん自身のものですか?」 「ここは私の家だ…。生活を新しく始めようと思ってね…。家族で住むにはちょうど良いだろう?」 家族で住む。 香穂子は胸が張り裂けそうになるぐらいの痛みを感じていた。 「…家族で…ご結婚を考えているんですか…?」 声が明らかに震えてしまう。 吉羅が結婚を考えている。だからこそ、香穂子が海外に行くことにも冷淡であったのだろうか。 もしそうならば、このまま消えてしまいたくなる。 魂が慟哭しようとしている。 「…そうだね…。私もそろそろ身を固めなければならないからね」 吉羅は更に躰を密着してくる。 他の女性の者になる人が、そんなに密着して来ないで欲しい。 寂しくなってしまう。 「…ご結婚されるんですね…」 「まだ、相手には言ってはいないけれどね…。香穂子、君はここで住みたいと思わないか?」 「私が…?」 鼓動が急に違ったリズムで刻み始める。 だがぬか喜びかもしれない。 香穂子は冷静になるように自分を諭した。 「…住みたいです…」 「それは良かった。この家を子供の笑顔で満たしたいと思ったことはないかね?」 「え…?」 香穂子が驚きの声を上げると、吉羅はくるりと腕の中で躰を回した。 吉羅と見つめ合うポーズになる。 「…香穂子…、ここで一緒に暮らさないか? 一生…。この家を子供たちの笑顔で満たせてはくれないか…? 香穂子…、結婚してくれないか…?」 香穂子は、まさかプロポーズをされるとは思わなくて、その場で固まってしまった。 「海外には行かないでくれ…! 香穂子…」 吉羅に思い切り抱きすくめられて、息をするのが難しい。 今度は嬉しくて涙が滲んでくる。 嬉しくてどうして良いのかが解らないぐらいだった。 「…香穂子…」 吉羅は掠れた官能的な声で懇願するかのように呟いてくる。 香穂子は瞳に涙を溜めながら真直ぐ吉羅を見た。 「…嬉しいです…私…暁彦さんのそばにいたいです。海外には行きません…!」 香穂子がキッパリと宣言をすると、吉羅は更に力強く抱き締めてくれた。 「有り難う…! 香穂子。君を一生幸せにするよ」 「私も暁彦さんを幸せにします」 「有り難う…」 吉羅はフッと笑うと、香穂子を熱っぽいまなざしで見つめた。 「君を海外に行かせないように、私は画策をしたんだよ」 「何をですか?」 「…君に子供が出来たら、日本に残るだろう?」 吉羅が言った意味がようやく理解出来て、香穂子は真っ赤になる。 「愛してるよ。既成事実を作ろうか」 「私も愛しています。既成事実を作りましょうか」 ふたりは顔を見合わせると、お互いをしっかりと抱き締める。 ブルームーン。 願い事はしっかりと叶えてくれたようだ。 |