前編
3年生になっても、吉羅は相変わらず“付き合っていない”と言いながらも、食事に誘ってくれている。 日本音楽コンクールの学生部門で第1位になってからもそれは変わらない。 大学に進学をしたら変わるだろうか。 いや。 少しも変わらないだろう。 吉羅が理事長であることは変わらないのだから。 今夜はドレスコードがあるレストランでの食事だと事前に言われていたから、香穂子は少しフォーマルなワンピースを選んだ。 ヒールを履いて、香穂子は薄い化粧をする。 事前に言われたからこそ、きちんと出来るのだが。 最近は、こういった“事前予約”が多くなっている。 それこそが“デート”なのではないかと、香穂子は何度も言いそうになったが、吉羅は認めないだろう。 住む世界が違うと感じる素敵なひと。 だからと言って、諦めたくはない。 精一杯、出来る限りのことをするまでだ。 ただ前を向いて、頑張るのだ。 待ち合わせの場所である近くの公園に向かうと、直ぐに吉羅がやってきた。 ランボルギーニの愛車。 イタリアンテーラードのスーツと靴、シルクの品のあるネクタイに、オーダーメイドのカッターシャツ。 どれを取っても上質で、自分のようにバーゲンで買ったわけではないのだと、香穂子は心の中で溜め息を吐いた。 「…お待たせしたね」 いつものように感情のない声で言うと、吉羅は香穂子を冷たい視線で見つめた。 かなり居心地が悪い。 辛いと言っても良い。 吉羅はきっと“紛い物”であると判断したのだろう。 香穂子が切ない気分で小さくなっていると、吉羅はその手を取った。 「日野君、行こうか」 「はい」 エスコートをされて、助手席に座らされる。 吉羅はスマートに運転席に回ると、直ぐに車を出した。 吉羅は何も話してはくれない。 機嫌を損ねてしまったのだろうか。 卑屈になる性格ではないが、吉羅の前だと萎縮してしまうのだ。 それほど吉羅の威力は凄かった。 レストランは、横浜の夜景が見られる、とても眺望の良いところだ。 吉羅とふたりで見ると、そのロマンティックさが増す。 吉羅に腰を抱かれてエスコートをされる。 何だか大人の女性になった気分だ。 エスコートされて席に着く。 吉羅と向かい合わせに座ると、何だか緊張した。 「ここは眺望がとても良いレストランだ。楽しんでくれると良いが…」 「こんな綺麗な夜景が見られて、私はとても嬉しいです。有り難うございます」 「それは良かった」 吉羅はいつものようにスマートな対応になっている。 何故だか義務のように思っているのではないかと、思わずにはいられない。 「…あ、あんなところでローラーブレードを滑りながら、歌を歌っているひとがいますよ!」 香穂子は、クールな雰囲気を壊したくて、小さく見える下の公園で楽しそうにしているふたりの男を指差した。 「…何処かで見たことがあるシルエットのような気がするが…、懐かしいことをしているな」 「…懐かしい?」 香穂子が不思議に思って訊き返すと、吉羅は妙に照れたような笑みを一瞬だけ浮かべた。 「…何でもない…」 吉羅はさらりと言うと、またいつものように冷たい表情を浮かべた。 食事が進んでいくのに、吉羅の表情は全く変わらない。 本当に楽しんでいないように見えた。 「…吉羅理事長、楽しんでいらっしゃいますか…?」 恐る恐る香穂子が訊いてみると、吉羅は驚いたように目を見開いた。 「私が楽しんでいないように見えるかね?」 「…余りにいつも通りですから…」 「充分に楽しんでいるよ。君と過ごす時間はとても楽しめる時間だからね。日野君、君はどうなのかね?」 「…私…ですか? 楽しんでいますよ。吉羅理事長といる時間は、本当に楽しいです」 香穂子は心からそう思っているから、素直に笑顔で答えた。 「そうか…」 吉羅はフッと笑うと、香穂子を見つめた。 「…君ももうすぐ大学生…か…。大人の仲間入りをするわけだね」 「そうですね…」 「これから君には危険な誘惑が増えてくるだろう。君は余りに自覚がなく、その誘惑になびいてしまうかもしれない。それは余りにも危険だ」 吉羅は淡々と言いながら、香穂子を真直ぐ見つめる。 誘惑になんて恐らくは乗らないだろう。 ただし、目の前のひとからの誘惑ならば、乗ってしまうかもしれない。 「…君を危険な目に遭わせることは出来ないからね…、私もかなり心配している…。これからも…、私の誘いだけを受けるように。…私を安心させてくれないか…?」 吉羅のストレートに見えて、かなり遠回しの表現にドキドキする。 大人な吉羅らしい誘惑を受けているように思えて、香穂子は息を呑んだ。 何か言おうとしても、嬉しいドキドキとときめきで言葉に出来なかった。 「…あ、あの…。それはずっと…、吉羅理事長のお誘いだけを受けていたら良いですか…?」 「それが懸命だと思うがね。私も君が危険な目に遭わないと安心が出来る…。君は余りに無防備で、男がどれほど危険であるかを、解ってはいないからね…」 吉羅はさり気なく、香穂子の手を握ってくる。 心臓がバクバクしてしまい、喉が渇いてどうしようもなかった。 「…安心させてくれないかね?」 「それは…、理事長としてですか…? それとも…」 ひとりの男としてそう思ってくれていたなら、それ以上に嬉しいことはないのに。 「…無論、星奏学院の理事長としてもあるが…、私個人としてもある…」 吉羅はフッと今までにない甘い笑みを浮かべて、香穂子を見てくれる。 その笑みを見ているだけで、頭がぼんやりとする。 うっとりするというのは、このようなことを言うのだろうかと、香穂子は思った。 「…これからもずっと、私の誘いだけを受けるようにするんだね…」 「…理事長…。それは勿論です。理事長のお誘いだけを受けるようにします…」 香穂子はどう表現して良いかが解らないぐらいに、ドキドキしながら呟く。 「…よろしい。それで良いんだ、君は…。これからも君を定期的に誘う」 「…有り難うございます。嬉しいです。私も理事長を永遠に安心させることが出来たら、嬉しいです」 香穂子がにっこりと笑うと、吉羅も頷く。 「…君は…、大人になっても、まだまだ私が守ってあげなければならないだろうから、ずっと私の誘いを受けていてくれたまえ」 吉羅もフッと笑うと、香穂子を優しいまなざしで見つめてくれる。 それが嬉しかった。 「吉羅理事長…、有り難うございます。いつまでもお誘いに乗りますね」 「ああ。いつまでも誘うことにしよう」 解っているわ お互いにストレートに言えない訳を。 だが、香穂子は今はそれでも良いと思う。 一段ステップをあがるのは、きっと後少し、間近に迫っている。 その時は、更にステップアップをすることが出来るのかもしれない。 香穂子は、吉羅にただ笑顔を向けて、それ以上は何も訊かなかった。 「日野君、卒業式の後は何か予定はあるのかね?」 「特には。平日なので家族とのお祝いは改めてになりますから」 「…そうか…。だったら、卒業式の夜で申し訳ないが、食事に付き合ってはくれないかね?」 「はい。解りました。とても嬉しいです」 「それは良かった」 吉羅と微笑みあいながら、香穂子は華やいだ気持ちになる。 吉羅との卒業式のディナー。 いったいどのようになるのかが楽しみだった。 |