後編
卒業式の日。 学院では、式の後に小さなパーティを開く。 ランチの会食のようなパーティで、お茶の時間にはお開きになるのだ。 高校生なのでそんなに派手なものではない。 友人たちや恩師と高校生活を振り返るのだ。 吉羅は少し顔を出す低度で、そんなに積極的には参加はしない。 たしか去年もそうだったと、香穂子は火原から聞いていた。 理事長としての吉羅はててもクールだ。 冷徹過ぎると言っても良い。 今年もやはり直ぐに理事長室に戻ってしまった。 パーティもお開きになり、香穂子は家に帰ってお洒落をしに行く。 薄いメイクに、とっておきのドレスワンピース。 ほんの少し大人になった気分だ。 「香穂子、今夜は帰って来るの?」 姉にからかわれて、真っ赤になる。 「…もう、嫌だなあ。そんなことあるわけないよ。ただお祝いにご飯を食べに行くんだから」 「そうなの」 姉は意外そうに言うと、香穂子を見上げた。 「香穂子、他の卒業もするのかと思ったのよ」 「…もう、お姉ちゃんのバカ…」 香穂子は俯くと、姉をきつく睨み付けた。 「行っておいで! もしものことがあったら、アリバイ工作の協力をしてあげるからさ」 「…あり得ないし…」 香穂子は姉に呆れながら言うと、ゆっくりと玄関に向かった。 「気をつけて」 「うん、有り難う」 姉に見送られて、香穂子は玄関から出た。 するとタイミング良く、吉羅の車がやってくる。 それが嬉しい。 ぴったりと香穂子の前に車を停めると、吉羅が中から出て来た。 「待たせたね。行こうか」 「…はい。有り難うございます」 香穂子が返事をすると、吉羅はエスコートをして車に乗せてくれた。 お姫様のような気分になれたのがとても嬉しい。 「…吉羅さん、有り難うございます」 「どう致しまして」 吉羅はスマートに言うと、優雅にステアリングを切ると、車を走らせる。 「今夜の店は、ゆったりと生演奏が楽しめるフレンチレストランだ。ゆっくりとしたまえ」 「有り難うございます」 吉羅とロマンティックに生演奏を聴ける店に行くなんて、こんなにも嬉しいことはなかった。 「生演奏は勉強になりますから、とても嬉しいです」 「そうだね。君には後少しステップアップして貰いたいから、ちょうど良いのかもしれないね」 「プロの演奏はとっても励みになるので嬉しいです」 「そうだね。今の君には、必要なことだね」 「はい」 吉羅が卒業記念の食事場所に選んでくれたのは、眺望と音楽がうっとりとしてしまうほどに素晴らしいところだ。 吉羅にエスコートをされながら店内に進むのは、くすぐったいぐらいに幸せだった。 ドリンクが運ばれてきてふたりで乾杯をする。 流石にふたりはノンアルコールだったが。 「卒業おめでとう」 「有り難うございます。音楽科に入って、色々とサポートして下さいまして有り難うございました」 香穂子は吉羅に向かって深々と頭を下げる。 吉羅が、影になり陽向になり、香穂子を助けてくれたからこそ、こうして卒業することが出来たのだ。 食事は美しいだけではなくて、とても美味しいものだった。 「美味しいです。そして嬉しいです。流れている曲がものすごく綺麗ですし」 「そうだね」 香穂子は嬉しくて思わず鼻歌を歌いそうになる。 優雅な曲で、本当にうっとりとしてしまいそうだ。 目の前には理想の男性。 美味しい食事。 美しい音楽。 夢見るような時間だ。 「有り難うございます。本当に嬉しいです」 涙ぐみそうになる。 何度も笑みを浮かべて、香穂子は泣きそうなぐらいに幸せだった。 「君が楽しくて幸せなら、私はそれで良い。君も春からは大学生だ。より厳しいことを要求されるだろう。頑張ってくれたまえ」 「はい」 吉羅が見守ってくれるから頑張っていける。 手を伸ばしたら届きそうで届かないひと。 香穂子にとっては近くて最も遠いのが、最愛のひとなのだ。 吉羅を見ていると、幸せな気分になるのと同時に、切なくもなる。 こんなに好きなのに、手に届かない存在だなんて。 付き合ってもいない。 ただの同胞なのだ。 ファータが見えるという共通項以外は、本当に何もないのだ。 デザートが運ばれてくる。 季節のフルーツがたっぷりと入ったロールケーキ。 ふわふわとした食感が、まるでこの時間が泡沫であることを示しているかのようだ。 「とっても美味しいです」 「やはりロールケーキは最高だね…」 吉羅は一瞬、少年のような顔をする。 それが香穂子には新鮮で可愛く見えた。 「吉羅さんは甘いものなんて食べないかと思っていました」 「私は甘いものは結構食べるよ。意外だったかな? 沢山食べられないが、甘いものはきちんと食べるよ」 吉羅の意外な部分を知ることが出来て、香穂子はにっこりと微笑んだ。 「…何だか嬉しいです。私と共通項を見つけられて」 吉羅はフッと微笑むと、「そうだね」と柔らかに笑った。 甘い言葉も、付き合っている確約もない食事会。 それでもそばにいられるだけで楽しい。 そして嬉しい。 ロールケーキを食べ終えて、香穂子は胸が張り裂けそうになるほどの切なさを感じた。 「…これで、おしまいですね…」 「まだ、食べ足りないのかね?」 吉羅が半ばからかうように言うものだから、香穂子は慌てて否定をした。 「お腹はいっぱいですっ!」 「それは良かった」 香穂子は泣きそうな瞳を吉羅に向けながら、言葉がなかなか発せられない。 もう少しだけ一緒にいたい。 その一言が言えない。 もどかしく思っていると、吉羅が先に口を開いてくれた。 「…日野君…、もう少しだけ一緒にいないかね? 夜景を楽しむドライブをしようか?」 「…有り難うございます…」 言いたかった一言を吉羅が言ってくれた。 それが嬉しい。 ふたりでレストランを出て、車に乗り込む。 「夜景を見た後、うちまで送ろう」 「はい」 今夜最後の魔法だ。 吉羅はベイブリッジを渡ってくれ、ぐるりとドライブをしてくれる。 夜景はどの一瞬も光り輝いて見えた。 「…本当に綺麗です」 「それは良かった」 吉羅は再びベイブリッジに戻って渡り、みなとみらいの夜景が見渡せるところに車を停めてくれた。 車から出て、ふたりで夜景を眺める。 まだ春先だから夜は寒い。 吉羅がさり気なく自分のトレンチコートを掛けてくれた。 ふわりと官能的なコロンの香りがする。 耳の下が痛くなってしまうぐらいに、甘い緊張を感じた。 「…有り難うございます、吉羅さん…。こうしてあなたと夜景が見られるのが嬉しいです…」 「それは良かった。日野君、夜景を見たければ、先ずは私に言うように。解ったね?」 「はい」 「私以外の男とふたりきりで夜景を見ないように」 「…はい」 吉羅の言葉に、香穂子はドキドキする。 「約束を守って貰うためには、確約を取らないとね…」 吉羅は甘く低い声で囁くと、腰を屈めて顔を近付けてきた。 「…え…?」 先程のロールケーキのように、ふんわりとまろやかにキスされる。 一瞬しか触れてはいないのに、そこに永遠が閉じ込められているような気がした。 「…吉羅さん…」 「日野君、君はもう高校生ではなくなった。だから言う…。私と正式に付き合って貰えないかね? 君は私を 安心させてくれるのだろう?」 吉羅の言葉に香穂子はただ頷くことしか出来ない。 「はい」 嬉しいのに涙が零れる。 笑顔になると、吉羅はフッと笑い、香穂子を抱き締めて再びキスをしてくれた。 今日は高校の卒業式。 そして香穂子の片思いの卒業式。 |