*夏のひかり/秋のひかり*

前編


 もう直ぐ夏も終わる。
 あんなにも自己主張をしていた太陽が、いつの間にか静かになっている。
 夕陽は柔らかくて優しい光になり、セミは合唱する頻度が減っている。
 夜にはもう鈴虫が聞こえ始めていた。
 もうすぐ今年の夏も逝ってしまうことを示している。
 秋が近い証拠に夜の風も随分と涼しくなってきた。
 暁慈はといえば、虫の音にかなり敏感で、蝉が鳴かなくなっていることに寂しそうな顔をしていた。
「…蝉しゃん…、鳴き声が変わったね…」
「そうだね。もう秋が近いってことを教えてくれているね」
 吉羅は息子と手を繋いで、庭をぐるりと散歩する。
 ヴァイオリニストの母を持つからか、音にはかなり敏感だ。
 産まれた時から、母親の良質な音色を聴いているのだから当然だと吉羅は思った。
「今度はしゅじゅむししゃんがいっちょけんめい音楽を奏でているよ」
「そうだね。一生懸命奏でてくれているね」
 吉羅は優しい調子で言うと、息子をそっと引き寄せた。
「さあお二人とも、デザートの梨が切れましたよ」
 大きなお腹を抱えて、香穂子が声を掛けてくれた。
 香穂子は臨月なのだ。
 もういつ産まれてもおかしくないと言われている。
 暁慈にとっては初めての下の妹か弟ということになる。
 暁慈は、家に入ると、父親と一緒に手を丁寧に洗った。
「さあどうぞ」
 暁慈は嬉しそうに笑うと、梨をシャリシャリと音を立てて、美味しそうに食べる。
「ちゃりちゃりちゅるっ!」
 音で表現するあたりは、やはり香穂子の子供なのだろうと吉羅は思った。
 香穂子は窓の外を眺めながら、フッと微笑む。
「…もうすぐ…、秋ですね」
「そうだね。虫の世界の主役も、蝉から鈴虫に変わってきたからね」
「そうですね。蝉はもう夏を惜しむように鳴いていますからね…」
「そうだね。そして、間も無くこの子が産まれる…」
 吉羅は香穂子の大きくなったお腹を優しく撫でてくれた。
「もうすぐ逢えるのが楽しみだ」
「はい」
 吉羅にとっては、初めて誕生から立ち会うことが出来る子供なのだ。
 そういう意味では、吉羅にとっては特別な子供であると言えた。
 梨を食べ終えると、吉羅は息子と一緒にお風呂に入る。
 最近はこれが吉羅にとっては楽しみのひとつだ。
「明日もいっぱい虫しゃんと遊ぶ」
「そうだね。明日も沢山遊ぶと良い。ママの手伝いは忘れないように。お腹の赤ちゃんがもう直ぐ産まれるからね」
「あいっ」
 息子は素直に言うと、吉羅に抱き付いて甘えてきた。
 幸せが増えていく。
 こんなに素晴らしいことはないのではないかと、吉羅は思う。
 子供が産まれたら、幸せはもっともっと素晴らしいものになると思った。

 香穂子が入浴を終えて寝室に入ると、はにかんだ様子でこちらを見た。
「暁彦さん、恐らく…もうすぐ赤ちゃんが産まれます。その印が来ましたから」
 香穂子の言葉に、吉羅は嬉しくてしかたがなくて、思わず抱き締めた。
「たのしみだね」
「はい。二人目の赤ちゃんもきっと良い子で産まれてくると思います」
「暁慈を見ていればそれは解るからね」
「はい」
 香穂子が優しい表情でお腹に手を宛る。吉羅はその手に自分の手を重ねた。
「…暁彦さん、私、本当に幸せです」
「私も幸せだよ」
 ふたりは幸せな笑みを浮かべると、いつまでも寄り添っていた。

 翌朝、吉羅はいつもよりも落ち着かなかった。
 子供がもうすぐ産まれるから、楽しみで逢いたくてしょうがない。
 ここまで無事に育ってくれたことを、吉羅は感謝せずにはいられなかった。
 朝食を終えた後、暁慈はいつものように庭に出る。
 だが、直ぐに吉羅のところに戻ってきて、しょんぼりとした。
「どうしたのかね?」
「…しぇみしゃんが…」
 暁慈は吉羅の手をギュッと握り締めると、そのまま庭に出る。
 暁慈は泣きそうになっているのか、ずっと俯いていた。
 暁慈は木の下に来ると、そのまましゃがみ込んで、地面を指差した。
「…せみしゃん…」
 吉羅が視線を向けると、そこには夏と共に去った命があった。
 蝉が静かに落ち葉の上に横たわっている。
 落ち葉はまだ青いが、確実に秋が近付いていることを、吉羅たちに教えてくれていた。
「蝉は地上に出て来て七日で死ぬんだ…。それまで七年間はずっと土の中で眠っている。この蝉は暁慈が産まれる前から生きているんだ…」
「かわいちょう…」
「そうだね」
 吉羅は息子と同じようにしゃがみ込むと、頭を優しく撫でてやった。
 本当に優しい子供に育った。
 吉羅はそれがとても嬉しい。
「とーしゃん、せみしゃん、寒しょうだから、葉っぱのお布団かけて良い?」
「ああ。そうしてあげなさい。蝉も喜ぶだろう…」
「あい…」
 暁慈は、蝉に布団を掛けてやる。
 その姿を見ながら、本当になんて可愛い息子なのだろうかと思った。
「終わったかね?」
「あい。せみしゃんにバイバイしゅる」
「ああ。お別れをしようか」
 吉羅が手を繋いでやると、暁慈はそっと蝉に手を振った。
 庭から戻ると、香穂子が落ち着いた様子で口を開いた。
「陣痛が始まったので…、シャワーを浴びてから病院に行きますね」
いきなりの宣言に、吉羅は驚いて香穂子を見た。
「大丈夫なのかね!?」
「大丈夫です。荷物は準備してありますから…、暁彦さん…、病院まで送って下さって良いですか?」
「あ、ああ。直ぐに準備をする」
「お願いします」
 香穂子は静かに微笑みながら言うと、バスルームに入っていった。
 吉羅はその間に車のトランクにスーツケースを詰め込み、暁慈のチャイルドシートをセッティングする。
 慌てて準備を終えた後、吉羅は香穂子が準備を終えるのを待った。
 香穂子は服を着替え、髪を手早く乾かしている。
 二人目ということもあり、かなり落ち着いていた。
 吉羅ばかりがおろおろとしているようだった。
「お待たせしました」
「じゃあ行こうか」
 吉羅は香穂子の手を握り締めて、静かに付き添う。
 その後ろを暁慈がおたおたと着いてきた。
 香穂子は、セキュリティを掛けるぐらいに落ち着いている。
 戸締まりをきちんとしてセキュリティをかけた後、三人で病院へと向かった。

 病院に入ると、直ぐに個室に向かう。
 家族とも一緒に過ごすけとが出来る、とても綺麗な病室だった。
 流石に香穂子はその豪華さに驚いていた。
 吉羅は妻には最高の環境で子供を産んで欲しいと思ったからだ。
「暁彦さん、これは少しやり過ぎです…。普通で良かったんですよ…。暁慈の時は市民病院でしたし…」
 香穂子は苦笑いを浮かべていた。
「君がいないと私も暁慈も何も出来ないからね、だから、君と家族が一緒に過ごせる場所を選んだんだよ」
 吉羅は本音を言うと、妻を真っ直ぐ見つめた。
「はい、私も暁彦さんと、あきちゃんと一緒に過ごしたいです。有り難うございます。お気遣い頂いて」
 香穂子が微笑むと、吉羅はギュッと抱き締めた。
 直ぐに担当医が来てくれ、香穂子を診察してくれた。
「このままだと夕方には産まれますね」
「…有り難うございます」
 香穂子は吉羅ににっこりと頷く。
「お父さんのお休みの日に産まれるなんて、この子は親孝行ですね…」
「そうだね」
 そろそろ香穂子が子供を産む頃だと、吉羅は今週の土日はしっかりと休みを取るようにしたのだ。
 それが功を奏したといったところだ。
 子供がまた幸せを運んでくれる。
 吉羅はわくわくしてしょうがなかった。



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