*記念日*

後編


「私たちしか、経済界らしい方はいないのは、どういうことでしょうか?」

 香穂子は席に思わず吉羅を見つめた。

 周りを見ると、明らかに財界人のような雰囲気の客はいない。

 香穂子が何度もきょろきょろとしていると、吉羅が苦笑いを浮かべた。

「香穂子、今日はなんの日かな?」

 まるで謎をかけるかのように吉羅が言う。香穂子はそこで、ようやく吉羅が意図していることに気がついた。

「覚えて下さっていたのですか?」

 吉羅の気遣いに、香穂子は泣きそうになる。

「勿論。君の夫としては当然のことではないのかね?」

 吉羅の言葉に、香穂子は益々胸を詰まらせる。

 こんなに嬉しくて幸せなサプライズはきっとない。

 起こせるのは、吉羅だけだ。

 香穂子は魂の奥底から喜びが溢れて、今にも泣きそうな気持ちになった。

 嬉しさが泪になって、瞳を埋める。

 潤んだ瞳で、香穂子は何とか吉羅に微笑んで見せた。

「そんな風に微笑まれると、困ってしまうよ、香穂子。君をこのまま抱き締めたくなる」

 吉羅は困ったように微笑んだか、その笑みは妙に艶やかで、甘かった。

「忘れるわけない。私が君にプロポーズをした日なのだからね」

 吉羅の甘さを含んだ優しい言葉に、香穂子は更に涙を浮かべてしまう。

 胸を詰まらせてしまうほどの甘い幸せに、香穂子は言葉を紡ぐことが出来なくなっていた。

 ただ、吉羅に、掠れた声で名前を呼ぶことしか出来ない。

「……暁彦さん……」

「ほら、泣くな」

 吉羅は益々困ったような笑みを浮かべながら、ハンカチを差し出してくれた。

「夜景も見えるし、君が好きなコースだ。記念日をふたりでゆっくりと堪能しよう」

「はい、暁彦さん……」

 折角、愛する夫が用意してくれたものだから、香穂子は笑顔で頷く。

 食事が運ばれてきた。

 きちんと香穂子の好みが押さえられたコースだ。

 これは吉羅だからこそ出来るサプライズなのだということを、香穂子は充分理解していた。

 食事は本当に美味しかった。

 お互いにアルコールをそれほどたしなむほうではないが、記念日だからとシャンパンを注文する。

 吉羅が、今夜はもう泊まるつもりなのだと、香穂子は思った。

 泊まるからこそ、吉羅は、アルコールを注文したのだろう。そう考えると、香穂子は意識してドキドキしてしまう。

 夫婦であるし、毎日、一緒に寝ているというのにもかかわらず、付き合っていた頃のときめきを感じずにはいられない。

 緊張して、おかしくなりそうだった。

 香穂子の甘い緊張を感じ取ったからか、吉羅は甘い笑みを浮かべる。

「君の緊張に、応えなければならないね」

 吉羅のからかうような言葉に、香穂子は耳まで真っ赤になるしかなかった。

 

 横浜の夜景を見ながら食べる食事は、本当に美味しかった。

 充分すぎるぐらいに堪能した。

 素晴らしく美しい夜景、美味しい食事、そして素敵な旦那様。

 おとぎ話の結末よりも、ロマンス小説の結末よりも、もっと、もっと、素敵な瞬間が閉じ込められている。

 デザートが運ばれてきた。

 吉羅とふたりでついにんまりしてしまうのは、それだけお互いに楽しみにしているからだ。

 三種類のプティガトーの詰め合わせだ。それに、優雅なロイヤルミルクティ。

 これ以上の組み合わせはない。

「素敵なデザートですね」

「そうだね」

 互いににっこりと笑いながら、デザートを楽しんだ。

 

 レストランを出て、ふたりが手を繋いで向かうのは、ホテルの客室だ。

「予想は出来ただろう? わたしの考えることぐらいは」

 吉羅はフッと微笑む。

「楽しみです」

 ふたりは、客室の中に入る。

 横浜のベイエリアの夜景を一望できる客室だ。

「暁彦さん、とても素敵です。ここから見る夜景は、最高です」

「それは良かった。君と見る夜景は最高だと、私も思うよ」

「暁彦さん……」

 吉羅と見る夜景は最高だと、香穂子も思う。

 ふと、背後から吉羅に抱き締められる。

「私はこうして見る夜景が最高だと思っているけれどね」

 吉羅はたっぷりと甘くて、かつ艶のある声で囁いてくる。

 息が難しいぐらいの甘さに、香穂子はくらくらしそうになる。

 吉羅の逞しい胸が、香穂子の背中をしっかりと包み込んでくれた。

「私もこうして夜景を見るのが大好きです」

「私たちは気が合うということですね」

「気が合わなければ、結婚なんてしていないだろう?」

「確かにそうですね」

 ふたりはお互いにくすりと笑いあった。

「君とは何度も同じ夜景を見たが、そのたびに新しい発見がある。君だからだと、私は常に思っているけれどね」

「私もですよ。また、気が合いましたね?」

「そうだね」

「今日は、もっと、もっと、気があった日なのかもしれないですね」

「確かに」

 お互いに微笑みは絶えない。

 素敵な夜だ。

 お互いの笑みを見つめると、本当にドキドキする。官能さと華やかな甘さを感じながら、どちらからともなく、ふたりは唇を重ねた。

 しっとりと唇を重ねながら、ふたりはお互いの熱を共有する。

 何度も何度もキスを繰り返したあと、ふたりはお互いに抱き合った。

 みなとみらいの夜景もロマンティックで素敵だが、それよりももっと、吉羅とこうして抱き合うことがロマンティックだと、香穂子は思った。

 これほどまでに胸に迫る甘さはない。

 抱き合いながら何度もキスをする。

 プロポーズをされた時も、同じようなことをした。

 何度も何度もキスをして、何度も何度も抱き合った。

 夜通し愛を確かめあったものだ。

 あの時の情熱は、まだ失われてはいない。

 それどころか深まるばかりだと、香穂子は思った。

 吉羅にたっぷりと愛を伝えたかった。

「愛しています、暁彦さん」

「勿論、私も愛している」

 吉羅と情熱的な眼差しで見つめあった後、愛し合うためにベッドへと向かった。

 

 完璧な日。

 完璧な記念日。

 香穂子も吉羅も、それを心に刻みながら、愛を交換しあう。

 今年もまた素晴らしい記念日を重ねたと、香穂子は思った。

「有り難うございます、暁彦さん」

「私こそ、君には何度有り難うを言っても足りないかもしれないね」

 吉羅はフッと笑うと、香穂子を更に強く抱き締める。

「……来年はもっと違った記念日になるかもしれないね……」

「そうですね」

 香穂子と吉羅は、お互いに甘い予感に身を震わせながら、抱き合った。



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