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夏休みに入ったといっても、それは学生の中だけであって、学校法人の代表としては、忙しく働かなければならない季節だ。 やれ会合だ、やれ銀行への融資要請など、沢山やらなければならないことが山積みだ。 熱くて堪らない季節の清涼剤になるのが、夏休みだというのに懲りずに理事長室に通って来る少女だ。 「おはようございます! 理事長!」 明るい笑顔と共に理事長室にやってきたのは、日野香穂子だ。 ファータが見える気の毒な体質になってしまったのが可哀相だと思い、目をかけている生徒だ。 「今日は早めに来ました。夕方からはクルージング船で演奏会がありますから」 「そうだったね。アンサンブルを大学と共同でやるんだったね」 「はい。前座ですけれど、物凄く楽しみにしています」 香穂子の瞳は輝いていて本当に楽しみにしているのが直ぐに解った。 きらきらと輝く瞳。 それは夢と希望を抱く若者の特権。 かつては自分も同じような瞳を持っていたに違いない。 だが、それは失ってしまったものだ。 それを思い出させてくれる香穂子の存在は、吉羅にとっては夢そのものだった。 「それは良かった。頑張りたまえ」 「はい! 勿論、頑張ります!」 香穂子の華やいだ笑顔に、吉羅はフッと瞳を細めて微笑む。 いつまでも見つめていたい笑顔だ。 「だから今日は早めに来ました。理事長の前でヴァイオリンを弾いた後、練習室で最終リハーサルをして来ます」 「ああ。君達は学院の代表で出てもらうのだからね。しっかりと頑張ってくれたまえ。それこそプロの演奏を食うほどにね」 「はい。ベストを尽くします。沢山の皆さんに、温かくて心地好く感じて頂けたらと思っています」 「そうだね」 吉羅が頷くと、香穂子は決意を秘めたような瞳を向けてくれた。 「…では、ヴァイオリンを弾きますね」 香穂子はにっこりと笑うと、ヴァイオリンを構える。 構えた瞬間から、日野香穂子はマチュアなヴァイオリニストになる。 いつものあどけない子どものような無邪気さは、何処かへ行ってしまったようだ。 香穂子は、夏の朝に相応しいその名も“朝”を奏でる。 爽やかな夏の陽射しに相応しい音を、吉羅は噛み締めた。 朝からとても良い音を聴かせて貰ったと思う。 穏やかな幸せを、腹の底から感じることが出来た。 香穂子はヴァイオリンを奏で終わると、途端に愛らしく瑞々しい表情になる。 「理事長、有り難うございました」 「こちらこそ、有り難う。君らしい朝には相応しい演奏だ。悪くない」 吉羅の静かな言葉に、香穂子はにっこりと嬉しそうに笑う。 笑顔を見てドキリとさせられる。 大人の女へと成長していく過程の少女を、こうして見守ったことも、目の当たりにしたことも、今まではなかった。 日に日に美しく艶やかになっていく姿を見せつけられると、胸が甘く苦しくなってしまう。 吉羅は軽く息を吐く。 これは恋ではない。 ただの同胞としての想いだけだ。 そう思っているのに、香穂子を抱き締めて閉じ込めたくなる衝動は、日に日に強くなるばかりだ。 恋じゃない。 ただの保護欲だ。 そう言い聞かせても、こころの欲求を押さえ付けることが出来なくなっていた。 「理事長…?」 不思議そうに香穂子に声を掛けられて、吉羅はハッとする。 「…ああ。今夜の君たちの演奏を楽しみにしている。私は仕事に入るから、君はリハーサルに行きたまえ」 「はい。では一旦失礼致します。理事長、夕方にお逢い出来ることを、楽しみにしていますね!」 「ああ」 香穂子が風のように行ってしまった後で、吉羅は大きな溜め息を吐く。 「…参った…な…」 吉羅は天井を仰ぐと、もう一度溜め息を吐く。 「日野君も、もう十九か…。大人びてくるはずだ…」 吉羅は再び溜め息を吐くと、自嘲ぎみに微笑む。 もう立派な大人の女になってしまっている。 このまま大人で艶のある美しきヴァイオリニストとして成長するのを見守るのか…。 それとも、この腕に閉じ込めながら、ヴァイオリニストとしての成長を見つめるのか…。 理性では、この腕の中に閉じ込めてしまうのは早いと言っているのに、本能は、今直ぐ閉じ込めてしまわなければ、後で酷く後悔をすると言っている。 どちらも選び難い状態になってしまっている。 だが、最近は本能が勝ち始めている。 吉羅は溜め息をもう一度吐いた後で、仕事に没頭することにした。 仕事を早々に切り上げて、吉羅はクルージング船が碇泊しているターミナルに向かう。 クルージング船だから、乗り遅れるなんてことは許されない。 それに香穂子が演奏をするのだ。聞き逃したくはない。 吉羅がパーティの手続きを終えて船に乗り込むと、馴染みの派手な女たちがいた。 彼女たちは確かに美しい。 だが、香穂子のように息を呑むほどのきらめきや温かな美しさを持ち合わせてはいなかった。 お飾りに横にいて貰うのは良いが、それ以外は関わって欲しくない人種だった。 「吉羅さんがお見えになるのを伺って、お話をするのをとても楽しみにしていました」 にっこりと微笑む姿は妖艶さと知的さを兼ね備えている。 妻にするには申し分ない人種なのかもしれない。 だが、それだけだ。 本当にそれしかない。 吉羅は、こころにない結婚など、今は考えられなくなっていた。 さり気なく横に付く女にうんざりしながら、香穂子たちの演奏を聴きにゆく。 香穂子たちはほんの前座で、誰もが挨拶に夢中になって音楽など余り聴かない時間で演奏をする。 だが本当に素晴らしければ、この時間でも誰もが素晴らしいと思ってくれることを、吉羅は解っている。 それに彼等ならそうするだけの実力はあるだろう。 吉羅はステージをただ見つめた。 香穂子が現れた途端、目を奪われる。 いつも以上に華やいだ美しさを放っていた。 本当に夏の夕暮れが霞んでしまうほどに美しくて、その場に立ちすくんでしまう。 夏の屋外の演奏だからか、きちんとしたスタイルではあるが、いつもよりも品良く露出している。 薄紅色のオフショルダーの華やいだワンピースに身を包んでいる。スカートは膝より少し長めで、美しく揺れている。 よく似合っていると思った。 じっと見つめているのに気付いたのか、香穂子は僅かに微笑んでくれる。 薄化粧をした香穂子は、この船上にいる誰よりも美しく、素直な気品があった。 その笑顔は誰をも魅了している。 魅了されているのは自分だけではない。だから心惹かれるのは当たり前なのだ。 だからこれは恋じゃない。 そう強く思ってはいても、実際には、香穂子の品性が溢れる美しさを独占したいと思ってしまっている。 香穂子は仲間たちとタイミングを取ると、ヴァイオリンを構える。 その瞳は、凜としていて綺麗だ。 演奏が始まる。 この時期に相応しい名曲、“サマータイム”だ。 清々しいアンサンブルになっている。 先ほどまで挨拶に夢中になっていた者たちが、一斉に音楽に注目する。 本当に美しいメロディ。 それ以上に香穂子は美しいと思った。 学院のアンサンブルは、黄昏時に映える曲を数曲演奏をし、ここにいる者たちを楽しませる。 「…みんな上手いですわね。これだとプロが霞みますわ」 横にいた女が静かに呟く。 それだけは吉羅も同意したいと思っていた。 |