*7月7日、晴れ。*

前編


 大切で幸せな時間が終わってしまうのを、切なく感じながら、香穂子は車に揺られている。
 今夜は日曜日。
 愛するひととはまた、一週間は逢えなくなってしまう。
 楽しくて、宝石のような煌めきを持った週末が過去り、また日常を象徴する横浜へと向かう。
 吉羅が住む六本木が非日常な夢の世界であるならば、普段暮らす横浜は現実だ。
 吉羅の運転するフェラーリは、確実に横浜へと連れていく。
 週末、吉羅と共に過ごすために六本木へと向かう時は、このフェラーリがシンデレラのカボチャの馬車のように思えるのに、帰る時はまるで現実に戻す高速列車のように思えてしまう。
 闇の中、まるで星屑のように輝く美しき光のなかを、ただ横浜に向かって走り抜ける。
 いつまでも湿っぽい顔なんてしてはいられない。
 なのに寂しさが顔に出てしまう。
 横にいる吉羅はと言えば、いつものクールな表情に戻っている。
 こういったところが悔しいぐらいに大人な男性だ。
 香穂子は夜空が見える角度で顔を上げる。
 都会では見つけにくいが、うっすらと天の河が見えた。
 そういえば明日は七夕だ。
 引き裂かれた愛し合うふたりが、年に一度だけ許されて出会うロマンティックなお祭。
 こうして週末は一緒に過ごせるのだから、織り姫と彦星よりは余程幸せだ。
 明日は晴れるだろうか。
 晴れたら良いな、なんて思いながら、夜空に想いを馳せた。
「…どうしたのかね?」
 吉羅の低い声が車内に響き渡り、香穂子は視線を横にいる恋人に移した。
「夜空を見ていたんですよ。明日は七夕様だなあって思って」
「忘れていたね、すっかり」
「はい。明日は晴れると良いなあって思っていたんです。晴れたら織り姫と彦星は逢うことが出来るでしょう? 愛し合うふたりには楽しんで貰いたいなあって」
「君は随分とロマンティストだね」
 吉羅は柔らかな笑みを声に乗せながら、優しい声で呟いた。
「ロマンティストでないと、ヴァイオリニストなんて務まりませんから」
「確かにそうだね」
 吉羅は笑いを含みながら呟くと、一瞬、香穂子の手の甲を撫で付ける。
「…暁彦さんも、相当、ロマンティストだと思います」
 香穂子がからかうような口調で言うと、吉羅は苦笑いをフッと浮かべた。
「そうだね。そうでなければ君と付き合うことは出来ないだろう?」
「はい」
 香穂子はにっこりと笑うと、もう一度、流れる夜空を見上げる。
「明日、本当に晴れると良いですね。ふたりには幸せになって欲しいから。明日の夜は、ふたりの幸せを観察しながら、ゆっくりと夜空を見上げることにします。家のベランダに出て、夜空を見上げます。あ、浴衣とラムネは必ず」
 香穂子が楽しそうに言うと、吉羅はフッと笑みを唇に宿す。
「ひとりで?」
「ひとりでですよ。大好きな誰かさんはお仕事だから。お仕事が上手くいくように祈っていますね?」
 香穂子が屈託なく言った時だった。
 突然、吉羅は車線変更をすると首都高を下りてしまう。
「どうされたんですか? ここからは下の道で帰るんですか?」
「…いや…、六本木に戻る。忘れ物をしてしまったからね」
「忘れ物?」
「ああ」
 吉羅は再び首都高に乗ると、六本木に向かって走り出す。
 香穂子にとっては、吉羅とより長くいられるから嬉しいが、吉羅には疲れが増すだけではないだろうか。
「暁彦さん、今から帰って横浜に引き返すのは疲れるでしょう? 私をこの近くの駅前で下ろして頂けたら」
「君がいないと取りにいけない忘れ物だからね。だから一緒に来て貰う。構わないね?」
「…はい」
 香穂子は首を縦に振ると、吉羅は安心したかのように手を握り締めてきた。
 その力強さにうっとりとしてしまった。

 車が吉羅の自宅駐車場に着くと、一旦、家に戻る。
 吉羅は何時にも増して、香穂子の手を強く握り締めてきた。
 部屋に入ると、吉羅は香穂子を強く抱き締めてくる。
「香穂子、今夜はうちにいるんだ。明後日、火曜日の夜に君を横浜へと送り届けるから」
 吉羅は、香穂子を今夜は帰さないとばかりに強く抱き寄せる。
 腕の強さに、香穂子は幸せの喘ぎを漏らした。
「…暁彦さん…、火曜日の夜までここにいます…」
「有り難う。明日と明後日の夜は、手早く仕事を片付けて帰るから、ここで待っていてくれたまえ」
「はい」
 香穂子が素直な笑みを浮かべて頷くと、吉羅は唇に情熱的なキスをくれた。
「…君と七夕を一緒に過ごしたくなった。ふたりでベランダに出て星を眺めよう」
「はい。暁彦さんと一緒に過ごせるなんて嬉しいです」
 吉羅は香穂子を抱き寄せると、甘いキスを何度となく浴びせてくる。
 そのままベッドへと運ばれ、しっかりと情熱的に愛されたのは言うまでもなかった。

 翌朝、朝食の後、吉羅からメモを受け取る。
「香穂子、今日、大学からの帰りにここに寄るんだ。後、夕食だが、デリバリーを手配するから、何もしなくて構わない」
「有り難うございます」
 香穂子は吉羅からメモを受け取ると、そこには銀座の美容室の名前と電話番号、店の位置が記してあった。
「…これは…?」
「行ってからのお楽しみだよ」
 吉羅は、まるで楽しいイタズラを仕掛けた子どものような表情をすると、軽く背中を叩いてきた。
 美容室。
 髪をアップにして何をするのだというのだろうか。
 香穂子は何も思い付かなくて、軽く小首を傾げた。

 大学が終わり、香穂子はヴァイオリンを片手に、銀座の美容室に駆け込む。
「ようこそ! 日野様、お待ちしておりましたわ」
 柔らかな雰囲気の女性に案内されて、先ずは奥の部屋に連れていかれる。
「吉羅様からお話は伺っています。浴衣を準備していますから、先ずは着付けますね」
「有り難うございます」
 想像していなかったサプライズに、香穂子は表情を綻ばせる。
「日野様の着付けとヘアメイクが終わる頃に、迎えに来られるとのご伝言です」
「はい。有り難うございます」
 こうしてさり気なく香穂子の願いを聞き入れてくれるところが、大好きなでしょうがない。
 いつも喜ぶことをしてくれる吉羅には、何度「有り難う」と言っても足りない。
「では綺麗にしましょうか。七夕様は美しい女性のものだと思いますからね」
「有り難うございます」
 ヘアメイクと着付けをしてくれる女性はベテランのようで、きびきびと手早くしてくれる。
 ヘアスタイルもメイクも、総て和風に仕上げてくれた。
 今まで和風なメイクも、ヘアスタイルも余りしたことがないから、とても新鮮に思える。
 姿見で全身を確かめた時、艶やかな和の雰囲気が出ていて驚いてしまった程だ。
「さてと、そろそろ吉羅様が見えると思いますよ。とても綺麗に仕上がりましたから、きっと喜ばれると思いますよ」
「綺麗にして下さって有り難うございます」
「いいえ。こちらこそやり甲斐がございました」
 香穂子のはにかんだ笑みに答えるように、女性もまた笑ってくれた。
 暫く美容室の待合で待っていると、早速と吉羅が現れる。
 美容室には、これから仕事に出る銀座の美しい華たちが多数いるというのに、吉羅は真っ直ぐに歩いていく。
 銀座の花々は、誰もがうっとりと吉羅を見ているのが解った。
 だが香穂子だけを見つめてくれている。
 それだけが純粋に嬉しかった。
「待たせたね、行こうか」
 吉羅が手を差し延べてエスコートしてくれるものだから、香穂子はうっとりとしてしまう。
 その手を取ると、吉羅はフッと微笑んでくれた。



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