*Valentine Kiss*

前編


 バレンタインデー。
 告白をするのを後押ししてくれる、女の子にとってはスペシャルな日。
 本当は、男性からも女性からでも告白をして良い日だと聞く。
 愛の素晴らしさを、そばにいて共に生きていく素晴らしさを説いた聖バレンタイン。
 大好きなあのひとといつまでも一緒にいられればと、思わずにはいられない日でもある。

 香穂子は、大型雑貨店の手作りチョコレートコーナーに出向き、溜め息を吐く。
 大好きなあの男性は、手作りチョコレートよりも、ベルギー王室御用達あたりの高級チョコレートがとても似合う。
 そのようなチョコレートとブランデーが似合う男性のような気がする。
 だが、そこまでするには経済力は勿論ない。
 だったら、せめて想いの丈を込めた手作りチョコレートにしようと思うが、何だか重たいような気がする。
 好きでもない小娘から貰うチョコレートは、やはり市販の無難なものが良いのだろうか。
 香穂子は色々と考えを巡らせながら、結局は手作りのチョコレートケーキに落ち着いた。
 ブランデーの効いたチョコレートケーキなら、まだ良いだろうと思う。
 香穂子はブランデーチョコレートケーキの材料を買って帰ることにした。
 材料を持って歩いていると、不意に聞き慣れたクラクションが背後から聞こえる。
 振り返る間も無く、香穂子の横に車が停まった。「日野君何処に行くのかね?」
 車のウィンドウを開けて、吉羅が顔を出して来た。
「理事長」
「今、帰りかね」
「はい」
「乗って行くかね? 家まで送ろう」
「有り難うございます」
 吉羅に家まで送って貰うのがとても嬉しい。
 香穂子は笑顔で車に乗り込むと、シートベルトをした。
「理事長にとっては少し遠回りになってしまいますね。ごめんなさい」
「構わないよ。君が風邪を引いてしまうよりはマシだからね」
 吉羅はあくまでクールに言うと、ギアチェンジをする。
「有り難うございます。お陰様で風邪を引かなくてすみますよ」
 香穂子は吉羅と一緒にいたいから、どのような理由でも良かった。
 車が信号待ちで停まり、香穂子が持つ紙袋が揺れて口を開けた。
 チョコレートケーキの材料が見えてしまう。
 吉羅の視線が香穂子の袋に行き、思わず隠してしまった。
 吉羅は何も言わなかったが、香穂子は恥ずかしくてしょうがなかった。
 絶対にばれている。
 バレンタイン用のチョコレートケーキの材料だと。
 ドキドキしながら、曖昧に笑うしかなかった。

 吉羅はちらりと見えたチョコレートケーキの材料に、胸が複雑に揺れる。
 吉羅はこのチョコレートケーキを誰のために作るのだろうかと、考えずにはいられない。
 自分以外の男であったとしたら、これほどショックなことはないと思う。
 香穂子に他の男がいるなんて考えたくもなかった。
 香穂子が他の男が好きだと思うだけで、気分が悪くなる。
 吉羅は、香穂子が自分にチョコレートケーキをプレゼントしてくれたら、これほどまでに嬉しいことはないのにと、思わずにはいられなかった。
 香穂子の家に到着し、助手席のドアを静かに開ける。
「…有り難うございました」
 香穂子は静かに言うとフェラーリから出て行く。
 本当は、このまま手を握り締めて、離したくはない。だがそこは何とか我慢をする。
 吉羅は、香穂子が家に入るのを見送った後、静かに愛車を動かした。
 吉羅は六本木の自宅に車を走らせる。
 胸が切なく重かった。

 香穂子はチョコレートケーキの材料をキッチンに置いて溜め息を吐く。
 吉羅は、チョコレートケーキの材料を見たところでも反応を示さなかった。
 吉羅が好きではないと言っているようなものだと思わずにはいられない。
 好かれてはいないとは解っている。
 だが、チョコレートケーキだけはせめて受け取って貰いたい。
 今までサポートして下さったお礼と、そして恋心を伝えるために。
 ここで諦めることも出来るが、そうはしたくはなかった。
 香穂子はチョコレートケーキに総ての想いを込めようと思う。
 吉羅への最初で最後の告白だと思っていた。

 吉羅は理事長室で一仕事を終えると溜め息を吐いた。
「理事長様、ちょっと良いか」
「どうぞ、金澤さん」
 吉羅がクールに言うと、金澤が理事長室に入ってきた。
「吉羅理事長、ハンコ」
 金澤は書類をひらひらとさせながら、吉羅の前にやってきた。
「無駄な経費は一切認めませんから」
「へいへい」
 金澤は吉羅に書類を提出する。
 音楽科に関する経費で、香穂子にも関わるところだ。
 吉羅は吟味をしながらも、結局は判子を押してしまった。
「もうすぐバレンタインだな」
「そうですね」
 吉羅はさらりと言うと、書類を金澤に突き返す。
「最近は、逆チョコっていうのが流行っているらしいぜ」
「らしいですね」
 吉羅はいつものように何気なく答えたが、不意に香穂子の顔が浮かんだ。
「…吉羅よ、今年のバレンタインは誰かからチョコレートを貰いたいなんてことはないのか? まあ、暁ちゃんはモテモテだから、チョコレートは沢山手に入りそうだがな」
「余りからかうのは止めて下さい」
 金澤は笑いながら、いつものように飄々としながら書類を受け取る。
「じゃあな理事長様。そうそう、さっき日野をそこで見掛けたぜ」
「そうですか」
 香穂子が登校しているのが嬉しいくせに、つい何ともないとばかりの態度を取ってしまった。
 金澤はフッと笑うと、理事長室から出て行ってしまった。
 ひとりになり、吉羅は書類に再び目を通す。
 集中したいのに、逆チョコを香穂子にプレゼントすることばかりを考えていた。

 吉羅は横浜のデパートで、様々なチョコレートを見て回る。
 香穂子はどのようなチョコレートが好きなのだろうかと、考えてみる。
 香穂子は甘いものが大好きであるから、恐らくは喜んでくれるだろう。
 甘い甘いプレゼントだ。
 吉羅が香穂子の顔を思い浮かべながらチョコレートコーナーを回っていると、ふとヴァイオリンの形をしたとても愛らしいチョコレートを見つけた。
 これ以上に香穂子にぴったりで可愛いものはない。
 吉羅はそのチョコレートをごく自然に買い求めていた。
 チョコレートを買った後、吉羅がデパートの出口に向かって歩いていると、何と香穂子を見つけた。
「日野君」
「吉羅理事長!」
 声を掛けると香穂子は相当驚いてしまったようで、目を丸くしていた。
「理事長、お買い物ですか?」
「…ああ、そうだが…。日野君、君は?」
「私はお父さんとお兄ちゃんへ義理チョコを買いに来ました」
 香穂子の何気ない屈託がない言葉に、吉羅は胸がチリチリするのを感じる。
 香穂子はあのチョコレートケーキを、本命の誰かにプレゼントをする気なのだろう。
 そう考えただけでも辛い。
「日野君、これから時間はあるかね?」
「大丈夫です。これから、帰ろうと思っていたところですから」
「だったら家まで送ろう」
「有り難うございます」
 こうして笑顔を向けてくれるのが嬉しい。
 吉羅は香穂子が笑ってくれることが幸せだと思いながら、愛しい気持ちで見つめる。
「良いチョコレートは見つかったかな?」
「はい。自分で食べたいものをなるべく選びました。勿論、予算の範囲内というところがあるんですけれど…」
「そうだね」
「お父さんとお兄ちゃんのならつまみ食い出来ますしね」
 香穂子は屈託なく笑うと、吉羅を見つめて来る。
 もう少し視線を独占したかった。



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