*Valentine Kiss*

中編


「日野君、この近くに美味しいチョコレートを飲ませてくれるバールがあるのだが、一緒に来ないかね?」
「はい!」
 吉羅とバールに行くことが出来るなんて、こんなに嬉しいことはない。
 香穂子は笑顔で即答をした。
「日野君、君が欲しいと思ったチョコレートはどれだったのかな?」
「とても手が届かないチョコレートだったんですけれど、ヴァイオリンの形をしていて、ピンクの花のチョコレートがあしらわれている可愛いものだったんです。凄く素敵だなって…。あんなにも綺麗なチョコレートだったら、きっと…、食べられなかったでしょうけれどね」
「そうだね」
 吉羅は頷くと、自分が買い求めたチョコレートがそれであることを嬉しく思った。
「チョコレートは本当に美味しいそうだ。楽しみにしたまえ」
「はい」
 吉羅は美しい洋館の前で、愛車を停める。
 何だかクラシカルな映画に出てくるような優美さを持っている館だ。
 建物に入っていくとー優美な雰囲気はそのままで、ロマンティックなバールになっていた。
 まるで魔法をかけられて、おとぎ話の世界に迷いこんでしまったような気分になる。
「この時間ではまだチョコレートやコーヒーを出してくれるんだよ」
 吉羅はテーブルに着くと、香穂子にメニューを見せてくれた。
 香穂子は勿論、吉羅が薦めるチョコレートを選ぶ。オレンジピールがほんのりと入ったものにした。
 吉羅はと言えば、車で来ているのでイングリッシュダージリンを注文した。
「チョコレートで温まりそうですよ。有り難うございます」
 香穂子は運ばれてきたチョコレートに甘い気分になりながら、うっとりとした気分になった。
「甘くて美味しいです」
「それは良かった」
 吉羅はフッと柔らかい笑みを浮かべてくれる。
 ノスタルジックな照明の下で輝く吉羅は、本当に美しい。
 まるで映画に出て来る俳優のようだ。
 思わず見惚れていると、吉羅がこちらを見た。
 じっと見つめているのがバレてしまうのが恥ずかしくて、香穂子は思わず目を逸らせてしまう。
 吉羅は静かなまなざしを向けるだけだ。
 ふと吉羅が大切そうに置いている紙袋の中身が見えた。
 香穂子がうっとりとしていたあのヴァイオリンチョコレートだ。
 吉羅がわざわざチョコレートを買うとは思えない。
 今も何も入れずにストレートに紅茶を飲んでいるのだから。
 香穂子は胸がキリキリと痛むのを感じた。
 まさか女性からチョコレートを貰ったのだろうか。
 それなら有り得る。
 吉羅はとてもモテる男だから、それは考えられることだった。
 恐らくは大切な女性から受け取ったものなのだろう。
 泣きそうになる。
 吉羅がチョコレートを本命から受け取ったとしたら、自分のチョコレートを受け取って貰えないかもしれない。
「…吉羅理事長…」
「何だね?」
「バレンタインのチョコレートは沢山受け取られるのですか?」
 香穂子はなるべく明るくさり気ない雰囲気で呟いた。
「大切なひとからは受け取ろうとは思っているけれどね」
「大切なひと…」
 益々凹んでしまう。
 吉羅の大切なひと。
 それはきっと自分ではない。
「本命チョコレートしか、受け取られないのですか…?」
 本命チョコレート。
 それこそ香穂子が吉羅に渡そうとしているものだ。
「…そうだね…。大切なひとからのものは受け取るよ…」
 吉羅はシンプルにそれだけを言うと、それ以上のことは語らなかった。
 香穂子もそれ以上は聞かずに、チョコレートを啜る。
 甘いのに心と同じでとても苦い味がした。

 吉羅に家まで送って貰い、香穂子はしょんぼりとしながら自室へと戻る。
 香穂子は父と兄へのチョコレートを机の上に置いた後で、深々と溜め息を吐いた。
 吉羅は手作りのチョコレートケーキを受け取ってはくれないのかもしれない。
 受け取らないのが大切なひとへのマナーだと思っているからかもしれない。
 香穂子は溜め息を吐くと、涙を一筋流した。
 どうしてこんなにも切ないのだろう。
 どうしてこんなにも胸が痛くてしょうがないのだろうか。
 香穂子は悶々と考えながら溜め息を吐いた。

 吉羅は六本木に家に戻ると、チョコレートを丁寧に保管する。
 逆チョコレート。
 これもチョコレート業界の陰謀だろうが、それでも楽しめるならば良いと思う。
 香穂子が最も欲しがっているチョコレートを買って用意をすることが出来たのだから。
 それは何よりも嬉しい。
 だが、気になることはある。
 香穂子がチョコレートケーキを渡す相手が本命だということだ。
 自分以外の相手であったならばこれほど苦しいことはない。
 それにこの逆チョコレートを、香穂子が受け取ってくれるとは限らないのだ。
「…参ったな…」
 こんなにも年が離れている相手に夢中になるなをて思ってもみないことだった。
 吉羅は香穂子のことを思い出すだけで、甘酸っぱい気持ちになる。
 こんなにも誰かを純粋なまでに好きになれるとは、思ってもみなかった。

 香穂子は今日もヴァイオリンを練習するために、学院へと向かう。
 春に向けて努力をしなければならないこともあるが、それと同じぐらいに吉羅に逢いたかった。
 毎日でも逢いたいが、相手は忙しい男性だから、なかなかそういうわけにはいかなかった。
 練習の後、香穂子はリリのところに向かう。
「リリ、想いを伝えるためには、どのような曲を奏でたら良いのかな…?」
「そうだな…」
 リリは考えこんだ後、ふと香穂子をじっと見つめた。
「うん、ファータにとっては実にめでたいことなのだ! 最高の楽譜をお前にやるのだ!」
 リリはニヤニヤ笑って、本当に嬉しそうにしている。
「ファータにとって何処がめでたいの?」
「お前と吉羅暁彦がケッコンしたら、最強の子どもが生まれるからなのだ!」
「え、あ、あの、リリ!」
 リリは妖精だから、香穂子の恋心がバレていてもしょうがないところがあるかもしれないが、それでも恥ずかしくてたまらない。
「めでたいぞ!」
 リリが騒ぎながら飛び回るから、香穂子は恥ずかしくてたまらない。
「だ、だから、めでたくも何でもないんだって! 理事長には私が一方的に片思いなんだからっ!」
 香穂子が真っ赤になりながら言うと、リリはきょとんとする。
「そうか?」
「そうだよ!」
 リリは不思議そうに腕を組んで考え込む。
「そのようなことはないと我輩は思うのだが…」
 リリは何度か悩むように小首をかしげた後で、香穂子を見た。
「まあ良い日野香穂子。お前には“愛の挨拶”の楽譜を渡そう! ものすごい力を持っているぞ! ヴァイオリンロマンスを成就させたのだからな!」
 リリは得意げに言うと、香穂子に楽譜を渡してくれた。
「有り難う!」
「ああ。その楽譜は凄いぞ! それがなければあの吉羅暁彦は生まれていないわけだからな」
「…生まれていない…?」
 香穂子は小首を傾げて、リリを見る。
「それってどういうこと? リリ」
「それはな、この学院の創立者から代々、ヴァイオリンロマンスで結ばれているのだー! みんな妻になる者はヴァイオリニストなのだよ。吉羅暁彦もヴァイオリニストと結ばれる運命なのだーっ! だからみんな“愛の挨拶”を演奏して結ばれたのだー!」
 リリの言葉を香穂子は感激をしながら聞く。
 きっと良いことがあるかもしれない。
 香穂子はそれだけを胸に楽譜を抱き締めた。
 ヴァイオリンロマンスになりますように。



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