*Valentine Kiss*

後編


 香穂子は金澤に用があり、部屋へと向かう。
「金澤先生、土曜日の練習室使用の許可を下さい」
「おう」
 金澤は香穂子が提出をした書類を事細かく確認する。
 面倒臭がりの大雑把な性格のわりには、きちんとしてくれる。
「…午前中だけで構わないのか?」
「はい」
「折角のバレンタインだもんな」
 金澤にさらりと言われてしまい、香穂子はほんのりと耳たぶを紅くする。
「何だ…図星か…?チョコレートを渡すために来るのか?」
「そんなことはありません」
 香穂子は俯いて何も言えなくなってしまう。
「今年の義理はなしか?」
「今年の義理は遅れてですよ。月曜日にみんなで集まりますから、その時に」
「じゃあ、バレンタインにチョコレートを渡すのは本命だけだということか」
 金澤の指摘に香穂子はドキリとする。
 本命である吉羅にチョコレートケーキを上げるためだけに、練習室を予約したのだ。
「…父や兄にはあげますよっ」
「それは血が繋がった身内だからだろう」
 金澤は飄々と言うと、香穂子の肩をポンと叩く。
「まあ頑張れや。高校生最後のバレンタインだからな」
「…そうですね…」
 金澤はまるで香穂子が吉羅のことが好きだということを知っているかのように言う。
「…じゃあ、失礼します」
 香穂子がドアを閉めようとすると、金澤が声を掛けてくる。
「日野! 健闘を祈る」
 金澤はニヤリと微笑みながら、香穂子にエールを送ってくれた。

 金澤はコーヒーを飲むためだけに、理事長室へと向かう。
「吉羅、美味いコーヒーを飲ませてくれ」
「ったく、職員室にもコーヒーがあるでしょう」
「理事長室のコーヒーは格別だからな。豆が違う」
 金澤はいけしゃあしゃあと言うと、コーヒーをマグカップに注いだ。
「日野が土曜日の午前中だけ、練習室の予約をしにきた」
「それがどうしましたか」
「あいつ、恐らくはバレンタインのチョコレートを誰かにあげるために来るようだ。今年のバレンタインは、身内以 外には本命にしかチョコレートはやらないようだ」
 吉羅はそこで敏感に反応してしまう。
 香穂子が本命にしかチョコレートを渡さない。
 その一言はかなり効く。
 切なくてたまらなくて、吉羅は落ち着けなくなっていく。
 香穂子は誰にチョコレートを渡すのだろうか。
 吉羅はそれが気になってしょうがなかった。

 金曜日の夜、香穂子はチョコレートケーキ作りに奮闘していた。
 吉羅にプレゼントをするために、丁寧に生地から作っていく。
 吉羅は受け取ってくれるだろうか。
 そんな切ない不安が香穂子を包みこんだ。
 チョコレートケーキの生地にブランデーなどを入れて、しっかりと作っていく。
 吉羅が喜んでくれるのならば、こんなにも嬉しいことはないというのに。
 香穂子はチョコレートケーキを焼いて荒熱を取る。
「なかなか綺麗に焼けて良かったー!」
 想像以上に綺麗にふんわりとチョコレートケーキが焼けたものだから、香穂子は嬉しくてしょうがなかった。
 二個焼いた同じケーキを味見して、なかなか悪くない味であることが確認することが出来た。
 後は、ラッピングだけだ。
 香穂子が丁寧にラッピングが終わった頃には、夜が更けていた。
 香穂子は慌てて明日の準備をすると、風呂に入り、ベッドに潜り込んで眠る。
 明日はどうか、このチョコレートケーキを渡すことが出来ますように。
 香穂子はそう強く思いながら、夢の世界へと入っていった。

 とうとうバレンタインの日になった。
 香穂子は朝からラッピングをしたチョコレートケーキを持って、向かう。
 歩いている時からドキドキしてしまっているから、心臓はいくらあっても足りないとすら思ってしまう。
 吉羅のいる理事長室へと向かう。
「日野です、理事長」
「入りたまえ」
「失礼致します」
 香穂子が理事長室に入ると、吉羅はいつものようなクールなまなざしだ。
 香穂子が吉羅をじっと見つめても、感情すらたたえることのない。
「…あ、あの…、一曲ヴァイオリンを演奏して構わないでしょうか?」
「ああ。ちょうど息抜きになる。演奏してくれたまえ」
「有り難うございます」
 香穂子は吉羅に深々と頭を下げると、ヴァイオリンを奏で始めた。
 リリから貰ったとっておきの楽譜である“愛の挨拶”を奏でる。
 心から愛しているとヴァイオリンの調べに込めて。

 吉羅は香穂子のヴァイオリンのメロディを聴き、こころが満たされると同時に気づかされる。
 このメロディは、吉羅にとって素晴らしいものであることを。
 両親が結ばれたのは、母親がヴァイオリンで“愛の挨拶”を奏でたからと聞く。
 そして憧れであり、常に尊敬をしている、曾祖父母もこの曲をきっかけに結ばれたのだ。
 香穂子のヴァイオリンは、いつもよりも情熱的で、清らかで温かい。
 吉羅の恋情が更に燃え上がるような気がした。
 素晴らしい。
 泣く事なんてしないが、本当にそうしてしまいたいぐらいに感動してしまう。
 素晴らしいと思った。
 このヴァイオリンを永遠に聴いていたい。
 だが聴き終わったら、香穂子を抱き締めたいという気持ちも溢れてくるのを感じていた。
 香穂子がヴァイオリンを弾き終わると、今にも涙が零れ落ちそうな瞳で、吉羅を見つめてくる。
 なんと美しいのだろうかと思った。
「…理事長…、今日はバレンタインです…。だから…」
 香穂子はそこまで言うと、一度、喉を鳴らす。
 切ない恋情が伝わり、吉羅は震えてしまいそうになる。
「バレンタインのチョコレートを…理事長に…。下手くそですけれど、一生懸命作りました。今までお世話になったし…。そして…あなたが大好きです」
 香穂子は素直で純粋な気持ちを吉羅に真直ぐ伝えてくれる。
 香穂子の気持ちが、吉羅の恋情に流れ込み、ひとつになっていく。
 吉羅が沈黙を保っているものだから、香穂子は不安になっているようで、躰を震わせていた。
「…やっぱり…私には資格はありませんよね。…理事長、失礼致しました…!」
 香穂子が深々と頭を下げると、理事長室から出て行こうとする。
 そうさせてはならない。
 吉羅は行こうとする香穂子の手を握り締めると、自分に引き寄せた。
「有り難う…、私は君が好きだ…」
 吉羅は恋情の塊のような掠れた声で囁くと、チョコレートケーキごと香穂子を抱き締めた。
「吉羅理事長…」
 本当に嬉しく思ってくれているようで、涙声になりながら名前を呼んでくれる。
 吉羅は嬉しくてしょうがなかった。
「…私からも君にプレゼントがあるんだよ…」
 吉羅はチョコレートケーキを受け取ってフッと微笑んだ後、用意をしておいたヴァイオリンチョコレートを差し出した。
「どうぞ。今年は“逆チョコ”というのが流行りらしいからね」
「有り難うございます。…私、このチョコレートがものすごく欲しかったんです…」
 香穂子は顔をクシャクシャにさせながら笑う。
 その表情が可愛くて、吉羅は蕩けるような甘い笑みを浮かべてしまう。
「チョコレートを置いてくれないかな? 私は君を抱き締めたいんだよ」
「…はい!」
 香穂子が頬を初めて返事をすると、チョコレートを置いて、吉羅の胸に飛び込んできてくれる。
「…吉羅さん…!」
「君を愛しているよ…。香穂子…」
 吉羅は香穂子をしっかりと抱き締めると、そのまま唇を奪う。
 バレンタイン。
 なんて素敵な日なのだろうか。
 “愛の挨拶”の伝説がまた引き継がれた瞬間でもあった。



Back Top