前編
秘密の恋ほど苦しくて同時にどこかほくそ笑んでしまうものはないと、香穂子は思う。 吉羅とはあくまで表向きは“理事長と生徒”だから、それを人前で破るわけにはいかない。 朝まで過ごして、吉羅のマンションから共に出ても、結局は香穂子は電車、吉羅は車で同じ場所に向かうのだ。 いつも大学の前で、恋人と名残惜しく別れて口づけをしている先輩を見ると、香穂子は痛いほど羨ましくなる。 香穂子が大学生になっても、それは全く変わりがなかった。 ようやく大人のカテゴリーに一歩踏み出すことが出来たのに、吉羅との関係は足踏み状態だ。 肌を重ねて、一緒に眠るようになってもそれは変わらない。 いつになったら日影から日向に出ることが出来るのか、時々不安になったりする。 普通の恋人同士と同じように過ごしたい。ただそれだけの願いなのに。 なかなか現実には叶いそうにない事実に、香穂子は切ない気分になってしまった。 もう堂々と男性と恋をして良い年齢なのに、足枷のせいで先に進むことが出来ないでいた。 大事な恋はナイショの恋。 だからこそ本当に信頼出来る相手だけに伝えた、吉羅との恋。 秘密にするのが限界にはなってきていた。 今夜は週末。吉羅のベッドのなかで、抱き締められて眠る。 「…香穂子…、私は君しかいらない…。君がいればそれで良い…」 強く抱き締められると、香穂子は抱き返す。 温かくてどこか孤独を感じる腕。 吉羅と陰であっても“恋人”と呼ぶ関係になってからは、いつも甘えるようにお互いに躰をすり合っている。 吉羅の孤独を感じる余りに、香穂子はいつも泣きそうな気分になっていた。 「…ずっとそばにいますから。だから暁彦さんもずっと私のそばにいて下さい」 「ああ」 吉羅は香穂子を抱き締めて、安心感をくれる。甘くてどこかやるせない存在感に、香穂子は泣きそうな気分になった。 最近、少しだけ調子が悪い。どうということはないのだが、食べたくなったり、食べたくなかったりの繰り返しで、香穂子にとってはかなり辛いものだった。 顔色がかなり悪いからか、キャンパスのなかで吉羅に呼び止められてしまった。 「日野君、最近、顔色が悪いが大丈夫か?」 「…大丈夫です。学校に通えないとか、そこまでではないですから」 「…そうか、なら良いが…。気をつけるように」 相変わらず吉羅は香穂子を十把一絡に見る。仕方がないのはわかってはいるが、こういう瞬間がいつも切なかった。 「…有り難うございます…」 香穂子もまた一生徒として頭を下げると、静かに吉羅から離れた。 吉羅から離れると、溜め息が出る。 心配して貰うのは物凄く嬉しくて堪らないのに、隠さなければならないのが切なかった。 「香穂、ホントに顔色余り良くないよ? プライベートと仕事をあんなにもきっちりと分ける理事長がさ、声を掛けて来るんだから、余程だよ?」 一緒にいた天羽が心配そうなまなざしを向けて来た。 天羽は、香穂子と吉羅が付き合っていることを知っている者のひとりだ。 だからこそ吉羅も声を掛けてきたのだろう。 「香穂、気をつけなよ。病院行ってゆっくり休めば治るだろうからさ。だから無理は禁物だよ」 「解ってるよ、有り難う、菜美」 香穂子は天羽を心配させないように、ニッコリと微笑んだ。 「だったら良いんだけれどね…」 「うん。大丈夫だよ」 香穂子は何度もニッコリと笑い、念を押した。 カフェテリアに入ると、急に食欲が出て、香穂子はいつも以上に注文をする。 「香穂! 凄い量だよっ!?」 「うん。だけどね、急にいっぱい食べたくなったからね。調子が戻ってるみたいだよ」 「…だったら良いんだけれどね…」 心配そうに天羽が見つめるなか、香穂子は食事を楽しんで食べる。 とにかく今は、お腹いっぱい食べたいと、躰が欲求しているのが解った。 食べ終わると流石に顔色が随分と良くなり、一緒にいた天羽も安心してくれた。 「ま、その顔色なら大丈夫だろうけれどね」 「でしょ? なんで、あんなにも顔色が悪くなってしまったのかな?」 「まあ、良いじゃん。気分が良くなったから」 「そうだよね」 香穂子は何度も頷くと、機嫌良く授業へと向かった。 授業が終わると、香穂子はホウっと大きな溜め息を吐く。 あんなに調子が良かったのに、また気分が悪くなり、結局はカフェテリアで少しばかり休むことにした。 「…風邪かなあ…。風邪にしてはかなりしつこいような気がするんだよね…」 香穂子は溜め息を吐くと、オレンジジュースを飲みながら外をぼんやりと眺める。 余り気合いが入らない。 何だかとろとろとしていて、本当にぼんやりとばかりしていた。 カフェテリアでは、遅れて昼食を取る者や、お茶の時間と称して賑やかな時間を過ごす者もいる。 「何だかさあ、女の子中でとろとろしているんだよね。怠い」 「それ解るよ」 何気ない会話が、香穂子の耳に入ってきた。 それに耳をそばだててしまう。 女の子----生理。 そう言えば、今月はまだ来てはいない。 すっかり忘れていたと思いながら、香穂子は手帳を開いた。 一月はおろか二月近くお目にかかってはいない。 香穂子は息を呑むしかなかった。 ひょっとしてひょっとする。 身に覚えは掃いて捨てるほどある。 今朝までも吉羅と過ごしていたのだから。 今や天羽に“週末婚”と揶揄されてしまう始末だ。 大学生だし、香穂子も間も無く成人する。高校生とは違って、自己責任が求められてくる年齢だ。 香穂子の脳裏に、“妊娠”の二文字が躍り、切なくなった。 吉羅の子供を身籠もることが嫌なのではない。むしろその逆だ。 とても嬉しい。 だが、暗い影を抱かずにはいられない。 吉羅は香穂子以外は必要がないと、キッパリと言い切っていたのだから。 香穂子がそばにいれば何もいらない。 それは子供は必要ないという意味でもある。 香穂子はそれを深く感じていた。 吉羅のことは一番解っていたから。 産みたいのに産めない。 そんなことを考えていると、香穂子の瞳に涙が零れ落ちた。 涙をハンカチで拭ったところで、誰かがテーブルを叩いた音がする。 顔を上げると、そこには吉羅がいた。 「日野君、どうしたんだ…?」 心配そうなまなざしを向けられて、香穂子は涙を内面に引っ込めた。 「…大丈夫です。本当に大丈夫ですから!」 香穂子は誤魔化すように言うと、テーブルから立ち上がった。 「吉羅理事長、失礼します」 香穂子は急いで吉羅から立ち去る。 泣いているところを見られたくはなかった。 それにふたりとも秘密の恋をしているのだから。 香穂子は逃げるように吉羅から離れた後、大学から出た。 今は吉羅をまともに見ることが出来ない。 「香穂! どうしたの!?」 声を掛けられて振り返ると、そこには天羽がいた。 「菜美…」 「大丈夫? 香穂顔色が酷く悪いよ」 「菜美…」 天羽の顔を見ていると、香穂子は涙が零れ落ちるのを感じた。 「か、香穂っ!? と、とにかく霧笛楼でも入ろうよ」 「うん、有り難う…」 香穂子は頷くと、天羽に支えられるようにしてカフェレストランへと入った。 無意識にカフェインを避けてしまう自分に苦笑いをしながら、香穂子はジュースを飲む。 「…どうしたの? 今日、ずっと気分が悪そうだったじゃない?」 天羽の顔を見ていると、落ち着いた気分になれる。今なら話せるような気がした。 「…妊娠したかもしれない…」 「え!?」 天羽は息を呑んだ後、納得出来るとばかりに頷く。 「確かに今日の香穂見ているとそんな感じだよね。で、吉羅さんには言ったの?」 香穂子は静かに首を振る。 「どうして?」 「暁彦さん…子供はいらないっていうよ。多分…」 「そんなこと訊いてみないと解らないじゃない!」 そこまで言ったところで、天羽はこころから驚いたように息を呑む。 その視線の先を見ると、髪を僅かに乱して立つ吉羅がいた。 |