*切ない想い*

後編


 先ほどキャンパスで見た香穂子の顔色の悪さが気になり、吉羅は仕事が手につかなかった。
 本当に具合が悪そうで、人目がなければあのまま抱き締めてしまいたかった。
 どんなことがあっても香穂子を守ると決意をしたのに、肝心なことが出来ないでいた。
 あんなに透明感のある香穂子を見たのは始めてで、心配すると同時に、本当に美しいと思った。
 まるで亡くなる前の姉を見ているようで、堪らなかった。
 大学生になってから、香穂子は頭角を表し始め、新進気鋭のヴァイオリニストとして注目を浴びている。
 だからこそ余計に守ろうと思っていた。
 なのにあれほどまでに弱っている香穂子の姿を見せつけられて、吉羅は苦しくてしょうがなかった。
 姉のようにしたくない。
 だからこそ大切に今まで見守ってきたのだ。
 吉羅はいてもたってもいられずに、香穂子を探しにキャンパスに出た。
 何処に行っても香穂子はいない。
 もう愛するものを失いたくない。
 香穂子を失いたくない。
 吉羅はそれだけを思い、髪を乱しながら香穂子を探し回った。
 だが香穂子は何処にもおらず、吉羅はキャンパスを出て、駅前の賑やかな通りに出た。
 熱くて冷たい、余り気持ちが良くない感覚に閉口しながら、香穂子の姿を探す。
 髪が乱れても、姿が乱れても、そんなことは関係ない。
 吉羅は一心不乱に香穂子を探した。
 香穂子がいつも友人と来るという老舗のカフェレストランの前に出ると、友人と深刻そうな話をしているのが見えた。
 本当に切なく苦しそうな顔をしている。
 なのにその横顔は本当に美しく見えた。
 綺麗だと、見入ってしまいそうになる。
 だが、こんな顔をしている理由が知りたくて、吉羅は店に入った。
 今朝、ギリギリまで一緒に眠っていた。
 あの柔らかな温かさを感じている時には香穂子の変化には気付いてはいなかった。
 だから悔しい。
 自分の想いだけを優先して気付いてやれなかったことが、悔しくて堪らなかった。
 吉羅がテーブルの前に現われると、天羽が息を呑む。
 髪も衣服も乱して香穂子を探す姿を見られたくはなかったが、仕方がなかった。
 天羽は香穂子の友人のなかで、吉羅と付き合っていることを唯一知っている人間なのだから。
「香穂子…」
 愛しさが溢れる苦しい声でその名前を呼ぶと、泣きそうな顔をされた。
「香穂、後はあなたたちで解決して。私は帰るからさ。吉羅さん、香穂をヨロシク。後、ここの代金、頼みますねー」
 天羽はにっこりと笑って席から立ち上がると、香穂子の肩をポンと叩いた。
 天羽が行ってしまうのを、香穂子はどこか切なそうに見送っている。
 その顔色を見ると相変わらず悪かった。
「…香穂子…顔色が悪い…」
 頬に触れようとすると、香穂子は明らかに震える。
 何かに怯えているようにも思えて、吉羅は胸にナイフが突き刺さったような痛みを感じた。
「…とにかく、今は休んだほうが良い…。本当に具合が悪そうだ…」
「だ、大丈夫です。暫くすれば良くなりますから…」
 香穂子はにっこりと笑って吉羅を見上げる。それは姉が病状を隠すときの症状に似ていて、思わず手を強く握り締めた。
「具合が良いようには少しも見えないじゃないか…。香穂子頼むから…」
 自分の声が裏返っているように見える。香穂子は驚きと同時に胸が痛むような顔をしてくる。
 香穂子は吉羅の姉がどうして亡くなってしまったのか経緯を知っているだけに、本当に泣きそうだった。
「…ごめんなさい…」
「ここでは何だ…。場所を変えよう。うちに行くぞ」
「あ、あの、お仕事は、それにみんな見ているし…」
 手首を掴んで引っ張って行こうとする吉羅に、香穂子は戸惑いの表情を浮かべていた。
「そんなものはくそくらえだ」
 いつもとは違う吉羅の本音に、香穂子は驚いたようだった。
 同時に、観念したのか、素直に立ち上がる。
「…解りました…。行きます」
「有り難う」
 吉羅は支払いを素早く済ませると、直ぐに表通りでタクシーを拾った。
 香穂子の手を握り締めたまま、後部座席に乗り込んだ。
 行き先を運転席に告げた後、黙っていたが、隣にいる香穂子が冷や汗をかいているのに気付いた。
「香穂子!?」
 具合がかなり悪そうに顔をしかめる香穂子、素早く抱き留める。
「運転手さん、行き先変更だ。附属病院に」
「はい、解りました」
 タクシーの行き先は吉羅の自宅から病院へと変更される。
 気持ちが悪くなるほどに胃が強張りを見せて、吉羅は唇を噛む。
 どうか香穂子が酷い病状ではありませんように。
 それしか祈ることは出来なかった。

 いつの間にか卒倒していたらしい。
 香穂子が気付いたのは病院のベッドの上だった。
「気付いたのね。余り無理はしないのよ…。吉羅さん、随分とあなたを心配していたんだから」
「はい、すみません」
 香穂子がうなだれながら躰を起こすと、女医は心配そうなまなざしを向けて来た。
「…先生、私…やっぱり…」
 それ以上言葉が出なくて、香穂子は医師を見上げる。
「…気付いていたの…? 妊娠していること」
「…気付いたのは、さっきなんです。それで不安になって…」
「そう…。三か月よ。今はとても大事な時ね。で、吉羅さんにも話はしてあるから、後はあなたたちで話し合いなさい」
 医師は柔らかな口調で言った後、ドアに向かって「どうぞ」と声を掛ける。
「私は席を外しますから、ふたりで話し合って」
 ドアが開き、吉羅が入ってくると同時に、医師は外に出ていってしまった。
 ふたりきりにされて、香穂子は胃の奥がキリキリするのを感じる。
 だが吉羅の表情を見ているととても穏やかで、ゆったりとしていた。
「…君が、取返しのつかない病などでなくて、本当に良かった…」
 吉羅はひどくホッとしたように呟くと、香穂子を抱き締めてきた。
「…不安にさせていたみたいだね…」
「…聞かれたんですよね…。子供のこと」
「ああ」
 吉羅は別段、香穂子を非難するのではなく、こころから優しい瞳を浮かべてくれている。
「…香穂子、選択は君次第だ。私はどちらでも受け入れる。だが、私としては君に産んで貰いたいと思っている。だが、君が決めることだ。じっくりと考えて欲しい」
 吉羅は淡々としてはいたが、香穂子のこころを包み込むような温かな声で呟いてくれた。
 嬉しくて、今度は逆に涙が零れ落ちてくる。
「産んで良いんですか…?」
「出来る限りのサポートはする。全力で。だから出来れば産んで欲しい」
 ずっと欲しかった言葉を、こんなにも簡単に貰えるなんて思ってもみなかった。
 香穂子は嬉しくて泣きながら、吉羅を強く抱き締めた。
「有り難うございます。本当に有り難う…。私…あなたの子供を産みます…」
「…香穂子…、こちらこそ有り難う…」
 吉羅は香穂子を思い切り抱き締めると、その額にキスをくれた。
「…君が本当に望んでいる人生を送ることが出来るように、私は努力を惜しまないよ。君の幸せが私の幸せだから」
「暁彦さん…」
 ふたりが幸せの余韻に浸っていると、どこからともなくアルジェントリリがやってきた。
「めでたいぞ! めでたいっ! またこれで魔法のアイテムが試せるぞ」
 ひらひらと楽しそうに舞うリリに、吉羅はこめかみをひきつらせる。
「…お前、私の子供にも実験台をさせる気かっ!?」
「うわっ!」
 吉羅に摘まれる気配を感じてリリは逃げ回る。
 ふたりの様子を眺めながら、香穂子は幸せを味わっていた。



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