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優しくも瑞々しい光を感じて、香穂子は目覚めた。 躰に錘のような疲労は感じてはいたが、辛いものではなかった。 ベッドからそっと起き上がり、時間を確かめる。 朝七時前。 昨夜、息子を産んだのが何時かは分からないが、いつもより眠っていたのは確かだった。 顔を洗ってさっぱりしたくて、香穂子は鈍い痛みによろよろとしながら洗面室へと向かう。 顔を洗って、歯を磨くだけでも随分とさっぱりした気分だった。 「香穂子、何をしているのかね?」 振り返ると吉羅が洗面室の後ろに立っている。 「こどもを産んだばかりなんだから、余り無理はしないように」 「大丈夫ですよ」 香穂子はにっこりと微笑みながら頷いてみせる。 だが吉羅の心配そうな顔は未だに消えない。 吉羅は香穂子をいきなり抱き上げると、ベッドへと連れて行ってくれた。 「本当に大丈夫ですから…」 「昨日の君の苦しみを見ているとそうは思えないよ。今日はゆっくりと休みたまえ」 「ゆっくりと休みますよ。だけどじっとしていりのも余りだと思うので…」 「全く…君は…」 吉羅は苦笑いをしながら、ベッドに寝かせてくれた。 「朝食を手配するから待っていたまえ」 「はい。お言葉に甘えます。有り難うございます」 「待っていたまえ」 吉羅は手早く手配をしてくれた後で、香穂子のそばに戻ってきてくれる。 「暁彦さん、お仕事は大丈夫ですか…?」 「今日は休みを貰った。明日からは仕事に戻るけれどね。まあ、この為に些かハードに仕事をこなしていたから、大丈夫だ。明日もきちんと定時に退社をして、ここに戻ってくるから」 「はい。有り難うございます。けれど余り無理をされないで下さいね。暁彦さんの躰が心配ですから…」 「有り難う」 朝食が運びこまれて来て、ふたりは食事を始める。 今朝は胃に優しい中華粥だ。 食事をしながら、吉羅は香穂子の様子をきめ細かく心配してくれる。 「大丈夫かね…? 君は…その…あんなにも痛みに苦しんでいたからね…。あんなに辛い痛みを君に経験させるぐらいならば、当分子どもはいらないね」 吉羅は心底思っているらしく、少し表情を歪めた。 確かに自然分娩はかなりの苦痛を伴う。だがそれ以上に、子どもを得る瞬間の喜びが大きかった。 「暁彦さん、私はまた暁彦さんの赤ちゃんを直ぐに欲しいと思いましたよ。愛しているひとの赤ちゃんが産めるほど、幸せなことはないですから…。だから、落ち着いたらまた子どもが欲しいと思っています」 香穂子はこころから思っている気持ちを素直に言うと、吉羅の頬に手を伸ばして撫でた。 「…有り難う、香穂子…。だけど、あの痛そうなところだけは辛いね」 「だけど、その苦しみがあるからこそ、その後の喜びがかなり大きいんですよ」 香穂子はにっこりと笑うと、頷いてみせる。 本当に吉羅は最高の旦那様だと思う。 こんなに素敵な旦那様を得て良いのだろうかとすら、香穂子は思う。 食事が終わると、看護師が息子のベッドを用意してくれた。 いよいよ子どもが病室にやってくる。 授乳やオムツ替えは母親教室で習っていたが、それでも不安がないわけではない。 「吉羅さん、お子さんを連れてきましたよ」 「有り難うございます」 看護師からこどもを抱き取ると、ふわふわと柔らかくて気持ちが良かった。 「お子さんにも朝ご飯が必要ですから、授乳をしてあげて下さいね。母親教室でご紹介したように抱いてあげて下さいね。そうおっぱいは交互の胸であげて下さいね」 香穂子は恐る恐る胸を息子に近付けて授乳をさせる。 「あっ! おっぱい飲んでくれている」 香穂子が歓声を上げると、看護師も微笑ましいとばかりに軽く頷いてくれる。 「これでお腹いっぱいにさせて下さいね」 「…はい」 我が子がおっぱいを飲んでくれているのが、とても嬉しい。 くすぐったいが、幸せな気分だ。 子どもが胸を離した時点で、看護師から次の指示が飛んだ。 「背中を軽く叩いて、ゲップを出してあげて下さいね」 言われたようにすると、息子は軽くゲップをした。 「赤ちゃんの朝ご飯はこれで終わりです。今日から退院まで、ずっと一緒にいて上げて下さいね」 「はい。有り難うございました」 看護師がひとまず安心とばかりに病室を出た後、吉羅は息子を覗きこんできた。 「…抱いても構わないかな?」 「どうぞ。お願いします」 香穂子が子どもを吉羅に渡すと、丁寧に抱いてくれる。 吉羅は息子をじっと見つめながら、目で息子と会話をしているように見えた。 「この子は本当にお父さんによく似ているでしょう? 私、ものすごく嬉しかったんです」 「有り難う」 吉羅は息子の柔らかな頬に触れたり、その指に触れたりしている。 「可愛いですね。本当に。暁彦さんのことを一生懸命見ているみたいです。お父さんであることが、直ぐに解るんですね」 「本当に、こんな感動はないね」 吉羅は息子を幸せそうに見つめた後で、香穂子の腕にそっと返してくれた。 「有り難うございます。本当に産まれたばかりなのに、暁彦さんによく似ていますね。嬉しいです。私、初めてこの子を見た時に、暁彦さんに似ているところを無意識に数えていました。それぐらい嬉しかったんですよ」 「香穂子…」 吉羅は香穂子ごと子どもを抱き締めると、暫くは独占するようにじっとしていた。 「…子どもの名前を考えなければならないね…」 「そうですね。…暁彦さんの暁の字をつけたいんです。後、美夜さんの一字を貰いたいんです…」 「香穂子…」 吉羅は深みのある声で名前を呼んでくれると、更に強く抱き締めてくれた。 「有り難う…」 「私こそ有り難うございます。暁彦さんにこうして支えて貰えたから、私はここまで頑張れたんですよ。こちらこそ有り難うございます」 香穂子は吉羅に寄り掛かるように甘える。 「これから三人で頑張って行こう。息子が、君に逆らうようなことがあったりしたら、昨日のことをしっかりと言い聞かせるよ。お母さんが命を掛けて産んだのだということを…」 「私もこの子に暁彦さんが産まれる前からどれほど愛してくれていたかを、ちゃんと伝えようと思っています。これほど愛されている人間はいないんだよって…」 香穂子はすやすやと眠る我が子を撫でながら、フッと愛情が滲んだ笑みを浮かべた。 「疲れただろう? 私が抱いてベッドへと連れて行こう」 「お願いします」 香穂子が吉羅に子どもを手渡そうとすると、しっかりとしがみつかれていた。 息子が余りに強く香穂子にすがりついているものだから、吉羅は苦笑いを浮かべる。 「ったく…。これからは息子と君を取り合わなければならないね…。私は負ける気はないからね。いつでも君の一番でいたいからね」 吉羅が大人気なく言うものだから、香穂子は苦笑いをせずにはいられなかった。 「私にとって暁彦さんはいつでも一番ですから、心配されなくても大丈夫ですよ。私もいつでも暁彦さんの一番でいたいですから」 香穂子が凜とした笑みを浮かべて宣言をすると、吉羅はそれに応えるように香穂子の唇に甘いキスを送った。 息子を何とか香穂子から引き離すと、ベッドに寝かせる。 吉羅はベッドに腰掛ける香穂子を抱き締めて、暫くは独占していた。 息子が誕生した翌々日、名前が決まり、吉羅は出生届出を行なった。 “吉羅美暁(きらよしあき)” 美夜と吉羅の名前を一字ずつ取った。 香穂子はその名前を大層気に入り、暁の陽の光のように美しく力強い人間に育ってくれればと、思わずにはいられなかった。 退院の日、三人で新しい一歩を踏み出す。 アルジェントリリに挨拶をしなければならないと言い出したのは吉羅で、車で学院に寄る。 リリの像に香穂子が声を掛けると、リリが姿を現した。 「吉羅暁彦! 吉羅香穂子!おお! それにお前たちの子供か!」 「吉羅美暁っていうんだよ」 「おー!吉羅美暁!早速、魔法のヴァイオリンを!」 「アルジェントリリ、調子に乗って貰っては困る。私たちの子どもを私たちと同じように実験台にされては困る」 吉羅がいつものように切って捨てるように言うと、リリはむくれた。 「むぅ!我輩は吉羅美暁のためにやるだけなのに!」 「それが無駄だと言っているんだ」 吉羅は相変わらずリリには厳しいが、その瞳は春の陽射しと同じように笑みを浮かべている。 「お手やわらかににね、リリ」 香穂子はくすりと笑うと、瞳に幸せな光を浮かべる。 新しい時間が始まる。 三人で紡ぐ新しい世界は、きっと華やかな春の陽射しよりも明るいものだと香穂子は予感していた。 |