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いよいよ香穂子は分娩室へと向かう。 吉羅は先に白衣の着替えと消毒を受けに行ってしまったので、香穂子ひとりでストレッチャーに乗せられて向かう。 それに付き添ってくれるのは、天羽と金澤だ。 「香穂子、頑張ってね!」 「うん、暁彦さんがそばにいるから大丈夫だよっ」 香穂子が痛みに堪えながら言うのも、吉羅のことなので、天羽や金澤は思わず苦笑いをしてしまう。 「吉羅は付き添いが出来るから、ここを選んだんだよな」 「恐らくは」 天羽と金澤は、ふたりの甘過ぎる様子を見ながら頷いてみせた。 香穂子が分娩室に滑り込むと、吉羅も一緒にやってくる。 「香穂子、大丈夫かね!?」 いつものような余裕はなく、吉羅は完全に落ち着きを無くしている。 「…暁彦さんがいてくれるから…大丈夫だよ…」 香穂子が苦しげに言うと、吉羅はその手を握り締めて頷いてくれる。 すぐさま医師が出産の準備をすると、確認をする。 「子宮口が開いているわね…。頑張って吉羅さん…。ポールに捕まって呼吸をして。事前に教えた呼吸方法、覚えているわね…」 「…はいっ…」 「ご主人はそばに着いて、汗が出たら拭ってあげて下さい。余り動揺されないように」 「はい」 医師はテキパキと指示をすると、香穂子の様子を見た。 「苦しいかもしれないけれど、頑張って。はい、呼吸を整えて」 香穂子は言われた通りに呼吸をしているつもりなのに、なかなか上手くいかない。 思っていた以上に鋭い痛みに、頭のなかが動揺しているのが原因なのかもしれない。 吉羅も香穂子と同じように呼吸をするものだから、医師も「ご主人の呼吸に合わせて!」と指示してきた。 吉羅も一緒に頑張ってくれているのが嬉しい。だからもう少し頑張ろうと思う。 「…吉羅さん、頑張って…」 医師の声が遠くに聞こえる程の痛みに、香穂子は涙を滲ませる。 視界が黄色く滲んで、痛みが頂点に達する。 「暁彦さん…っ!」 すぐそばに愛するひとがいてくれているのが解っているから、香穂子はすがるように言う。 「…香穂子、ここにいるから…!」 吉羅を求めて伸ばした香穂子の手を、吉羅は力強く握り締めてくれた。 「大丈夫だから、香穂子…」 「はいっ…!」 滲む汗を、吉羅がガーゼで拭ってくれる。 こんなにも壮絶な痛みにでも堪えられるのは、愛するひとの子どもを産むからだ。 愛する我が子を産むからだ。 「吉羅さん、いきんで」 「…はいっ…!」 香穂子が呼吸を整えていきむと、また痛みがやってくる。 壮絶に苦しむ香穂子を、吉羅は心配そうに取り乱しながら見つめていた。 「香穂子、大丈夫だから。頑張るんだ」 「…暁彦さん…っ!」 香穂子は縋るように愛する男性の名前を呼ぶと、強く手を握り締める。 「爪を立てても、何をしても構わないから…」 吉羅自身も香穂子の手を強く握り締めてくれた。 吉羅の手のひらは動揺しているせいか、汗を滲ませている。 「産道切開」 自分ではもう何をされているのか解らないほどに痛い。 「赤ちゃんの頭が見えてきましたよ。吉羅さん、頑張って…!」 「…はいっ…!」 我が子も頑張っているのだから、自分も頑張らなければならない。 香穂子は歯を食いしばると、更にいきんだ。 「…大丈夫だから、もう少しいきんで」 「はいっ…」 香穂子は痛みに堪えながら、力の有る限りいきむ。 その痛みは相当なもので、香穂子は何もかもが真っ白になってしまう。 ただ、吉羅がそばにいてくれるのが、とても嬉しかった。 「暁彦さん…っ!」 「…香穂子、もう少しだから、頑張るんだ」 吉羅は、香穂子の汗が流れる額を丁寧に拭いながら呟いてくれる。 吉羅は心配そうにこちらを見つめ、手を握り締める力が強くなる。 痛みに堪える香穂子の表情を見ているのが辛いのか、吉羅は時折、苦しそうな表情になった。まるで自分も香穂子と同じように陣痛を経験しているかのように。 「もう少しよ! 最後の力を振り絞って! いきんで!」 医師に言われた通りに、香穂子は力を振り絞っていきんだ。 次の瞬間、目の前が真っ白になる。 遠くで子供が泣く声が聞こえた。 「吉羅さん、おめでとうございます。男の子ですよ…!」 男の子。 香穂子はそれを聴いてにんまりと微笑みながら、静かに頷いた。 吉羅によく似ている健康な子どもであって欲しい。 ぼんやりと香穂子がしながら呼吸を整えていると、医師が吉羅を呼び寄せる。 へその緒を切って、産湯に漬かった後、おくるみに包まれた子供が吉羅の腕に手渡される。 「男の子ですよ」 父親教室にあれ程通っていたというのに、吉羅はぎこちない手つきで息子を抱く。その柔らかく優しい感触を一生忘れないだろうと、吉羅は思った。 「初めまして。私が君の父親だよ」 息子に語りかけた後、吉羅はそのまま、出産台で息を整えている香穂子に、子どもを見せに行った。 「元気な男の子だよ。香穂子」 「本当に」 息子は生命力に溢れていて、香穂子は笑みを零す。 吉羅から渡されて、そっと我が子を抱き締めた。 柔らかくて心許無いのに、とても可愛い。感動が込み上げてきて、香穂子は泣きそうになった。 「可愛い…。この子は暁彦さんにとても似ているかも…」 香穂子ははにかんで笑いながら、吉羅を見つめた。 「香穂子…、有り難う…」 吉羅は愛が溢れている声で言うと、香穂子をそっと抱き寄せてくれる。 「こちらこそ、有り難う暁彦さん。赤ちゃんにも有り難うって言わなければならないですね」 「…そうだね」 ふたりが余りに幸せそうな甘さを滲ませているものだから、医師は苦笑いを浮かべる。 「母子ともに健康で何よりです。お母さんはかなり疲れていますから、少し休まなければなりません。赤ちゃんも少しの間だけ新生児室でお預かりしますね。お母さんが休まれた後に、病室にお連れしますね」 看護師は香穂子の腕から赤ちゃんを受けとると、手首に“吉羅香穂子”と書かれたブレスレットを着けてくれる。 「お母さん、準備が出来ましたから病室に行きましょうか。ゆっくり休みましょうね。後、出産のすぐ後の様子は映像に残していますから、後でお届けしますね」 「…有り難うございます…」 無事に出産が終わり、香穂子は安堵する余りに力が抜けるのを感じる。 「…大丈夫かね?」 「…はい。眠くなったので、ゆっくりと休みますね…」 「ああ。ゆっくりとおやすみ」 香穂子は目を閉じながらストレッチャーに乗せられて、病室に運ばれていく。 吉羅は見送った後で、着替えに向かった。 シャワーを浴びて着替え終わって時計を見ると、深夜を回っていた。 香穂子の家族に連絡をしなければならない。 吉羅は夜が更けているとは承知しながらも、最新の注意を払って電話をかけた。 香穂子の両親はかなりの喜びようで、明日の午前中に見舞いに行くと弾んだ声で言っていた。 電話をした後で、吉羅は息子の様子を見に、新生児室へと向かう。 産まれたての我が子は、すやすやと眠っていた。 髪の色といい、鼻といい、眉といい、本当に自分にそっくりだ。唯一唇だけが香穂子に似ているような気がした。 愛しい子ども。 あんなにも激痛に堪えて産んでくれた香穂子には感謝しかない。 そして、今まで以上に愛しくなった。 本当に我が子以上に、香穂子が愛しくて可愛くてしょうがないと吉羅は思う。 吉羅は我が子が健やかであることを確認してから、香穂子が眠る病室へと向かった。 病室と言っても、まるでホテルのスィートだ。 病室に入ると、真っ先に香穂子が眠るベッドに向かった。 香穂子はかなり疲れたようで、少しばかり顔色が悪い。 吉羅は香穂子の額や頬を労うように撫でた。 「…有り難う…。君には本当に感謝しているよ…」 頬に唇を寄せると、香穂子は一瞬、笑ったような気がする。 母親になったとは思えない程の瑞々しい笑顔に、吉羅は笑みを零す。 今夜だけはゆっくりとひとりで寝かせてあげよう。 明日からはまた抱き締めて眠るから。 吉羅は甘く微笑むと、家族用の寝室に向かった。 至極の幸せを抱いて。 |