*9ヶ月*

13


 香穂子もいよいよ臨月を迎えた。
 お腹も大きくなり、日頃の作業がしずらくなってきている。それを吉羅はサポートしてくれるのが、有り難い。
 いつ産まれてきてもおかしくない状態で、時間があると吉羅が様子を訊くために電話をしてきてくれる。
 その気遣いが嬉しかった。
 今日も玄関先まで見送りに行くと、吉羅は突き出た香穂子の大きなお腹をなぞる。
「…陣痛が始まったら、直ぐに連絡するんだよ。いいね?」
「はい。有り難う、暁彦さん。いってらっしゃい」
 ようやく慣れた“いってらっしゃいのキス”。
 ぎこちなくすると、そっと抱き寄せられた。
「いってくる」
 吉羅を見送った後、香穂子は子ども部屋へと向かう。
 既に吉羅の手によって、沢山の玩具やベビー用品が並べられていた。
 ベビーベッドも既に準備が整った状態で、いつでも子どもを迎えられる。
「車の玩具に知育玩具、ゲームまで…。遊べるようになるには、まだまだ先なのにね」
 香穂子はくすりと笑いながら、幸せな気分で部屋を見て回った。
 本当にここまで吉羅に愛されて産まれて来る我が子に、香穂子はほんの少しだが嫉妬を感じてしまう。
 だが嬉しくもある。
 愛するが故に勇み足気味な吉羅が、愛しくてしょうがなかった。
 子ども部屋には、コンパクトオーディオも揃えられており、クラシックのCDが並べられている。
 星奏学院のかつて生徒だった者たちのものが殆どで、勿論、子どもの母親である香穂子のものも揃えられている。
「この部屋で大きくなるあなたは幸せだね」
 お腹を撫でていると、急に差し込むような痛みが起こった。
 陣痛かもしれない。
 直ぐに治まったが、時間を置いて、また痛みが走る。
 香穂子は陣痛であることにようやく気付いた後、出産予定のクリニックに電話をした。
 お風呂に入った後に来るようにと指示を受けた後、香穂子は吉羅に連絡をする。
 今日は会議なのが解っているから、メールで知らせた。

 暁彦さんへ。
 陣痛が始まったので、クリニックに行きます。
 タクシーを呼びますから大丈夫です。(^O^)/
 お仕事が落ち着いてから来て下さい。
 出産には間に合うと思いますから。
 香穂子

 慌ただしくお風呂に入り、陣痛の痛みに堪えながら、身仕度を整えた頃、吉羅が帰ってきた。
「香穂子!」
 吉羅の声に荷物を持ってひょっこりと顔を出すと、いきなり抱き締められてしまった。
「痛みはどうかね…?」
「大丈夫です。まだ陣痛には長い間隔があるので、出産までには時間はあるとは思いますよ」
 香穂子がニッコリと笑って落ち着いて言っても、吉羅はまだ心配そうにこちらを見つめていた。
「…暁彦さん、大丈夫ですから…」
 香穂子は吉羅を逆に抱き寄せると、柔らかく微笑んだ。
「…クリニックに行こう。ずっと着いているから安心したまえ」
「はい、有り難うございます」
 香穂子がにっこりと笑うと、吉羅はホッと溜め息を吐いた。
 かなりの量の荷物を吉羅はフェラーリのトランクに入れて、クリニックへと向かう。
 いつも以上に慎重で安全運転だ。
 子どもと香穂子を気遣うように、何度も心配そうに見つめてくれていた。
「香穂子、大丈夫かね?」
「波がありますから大丈夫ですよ。心配しないで下さい」
「…ああ…」
 吉羅は頷くと、香穂子の手を何度も握り締めてくれる。
 それは強い愛情と吉羅の不安が入り交じっていた。
 車がクリニックに到着すると、香穂子は快適で美しい個室に案内される。
 短い時間を過ごすだけなのに、ホテルのスィートルームのようで驚いてしまった。
 その上、家族も一緒に泊まって付き添いが出来るように、ベッドやシャワールームまで備え付けてある。
 かなりの広さだ。
「あ、暁彦さん、ここは本当に病室なの!?」
「病室だ。これぐらい快適でないと、君が可愛いそうだからね。一生懸命子どもを産むんだから、せめて過ごす空間だけでも快適にしてあげたいんだよ」
「有り難うございます」
 吉羅の心遣いに感謝しながら、香穂子は頷いた。
 直ぐに出産用のネグリジェに着替えて、香穂子はベッドに横たわる。
 そのタイミングで主治医がやってきてくれた。
「吉羅さん、陣痛の間隔は今、どれぐらいかしら?」
「二十分に一回です」
「解ったわ。ご主人は、陣痛の間隔を測って下さい。間隔が一分になったところで、分娩室に移動します」
「はい」
 吉羅は医師からストップウォッチを受け取り、神妙に頷いた。
「吉羅さん、今から軽く食事を取って、出産に備えましょう」
「はい」
 医師が呼ぶと、看護師が軽い食事を運んできてくれた。
「当分食べられないから、しっかり食べておいてね。ご主人、何かあればナースコールでお呼び下さいね。では」
 医師が一旦病室を出ると、吉羅は香穂子の小さな手を握り締めた。
「平気かね?」
「大丈夫ですよ。本当に。暁彦さん」
 香穂子が手を握り締めると、吉羅のほうが不安な顔をする。
「母親は強いね。そしてとても綺麗だ」
「暁彦さん…」
 吉羅は甘えるように香穂子を抱き寄せると、暫くじっとしていた。
 また、痛みが走り、香穂子は声を上げる。
「…大丈夫かね!?」
「…大丈夫です…。暁彦さん…、間隔、見ていて下さいね…?」
「…ああ」
 吉羅はストップウォッチを睨みながら、慎重に見つめていた。
 香穂子は、医師に言われた通りに、軽く食事を取る。
「ここのご飯、美味しいですね」
 香穂子がのんびりと笑うと、吉羅も少しばかり余裕のない笑みをくれた。
 香穂子が食事を終えると、天羽と金澤が病室にやってきた。
「菜美! 先生!」
 香穂子は笑顔でふたりを迎入れると、天羽菜美と握手をした。
「大丈夫?」
「結構平気なんだよ。きっと暁彦さんの赤ちゃんだから、痛みにも堪えられるのかなあ、なんて思うんだ」
「もう、惚気てっ」
 天羽は羨ましそうに笑うと、香穂子の手を握る。
「あっ…!」
 また陣痛の波がやってきて、香穂子は蹲る。
「香穂子!?」
 天羽を押し退けるように吉羅は香穂子に近付き心配そうに言うと、ストップウォッチのスイッチを押す。
「十五分だ。短くなっているね。大丈夫かな?」
「平気です…」
 痛いと言えば、吉羅のことだから、きっと心配するに違いない。だから本当のことは言えなかった。
「香穂子、本当に大丈夫?」
「うん…。大丈夫だよ。もう少ししたら、分娩室に入ることになるかな…? そこまで来たらもうすぐ赤ちゃんに逢えるから嬉しいよ」
「香穂子…。痛かったら、私の手を握ると良いから。無痛分娩のほうが良かったんじゃないのか?」
 吉羅は本当におろおろとして香穂子を見ている。
 いつもの冷静沈着な吉羅からは、全く想像することが出来なかった。
「…無痛分娩だと、麻酔とかを使うから駄目だよ…。赤ちゃんにリスクあるし…、暁彦さんの赤ちゃん沢山欲しいのに、帝王切開だと余り産めないでしょ?」
 香穂子がにっこりと微笑みながら呟くと、吉羅は人目も憚らずに抱き締めてきた。
 金澤と天羽は、恥ずかしいやら、幸せやら、羨ましいやらで、苦笑いを浮かべている。
 同時に、あの吉羅暁彦にこのような顔をさせるなんて、香穂子は相当な大物だと思わずにはいられなかった。
「まあしょうがないか。香穂子に一途な理事長だもん。痛みに我慢をしているのを見たら、そう思うか。だって、陣痛は男のひとが経験すると死んじゃうんだって」
「こらっ!天羽」
 あっけらかんと話す天羽に、金澤は思わず窘めた。
 勿論、吉羅の表情が固まったからに違いないが。
「だ、大丈夫ですよ。私は」
 香穂子はにっこりと笑うと、吉羅の手を宥めるように握り締めた。

 香穂子の陣痛間隔が短くなり、吉羅は主治医に連絡をする。直ぐに主治医が現れてくれ、テキパキと指示をしてくれる。
「では分娩室へと向かいます。吉羅さんは立ち会いの準備で、消毒をして白衣を着て下さいね」
「はい」
 いよいよ香穂子の出産は、刻々と近付いてきた。



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