*レディになるまでに〜愛の告白〜*

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 最近、怖い夢を見るのは、幸せに満たされているからではないかと、香穂子は思う。
 吉羅と想いが通じるようになってから、幸せを感じない日はない。
 だからこそ、失うのが怖くて、つい不安を感じてしまう。

 楽譜を見に行った帰り、香穂子は偶然にも吉羅の姿を見掛けた。
 相変わらず何処にも隙がない魅力を放っている。
 吉羅をドキドキしながらついうっとりと見つめていると、幸せな気分になる。
 吉羅は自分だけの大好きなひと。
 恋人だなんてなかなか信じられないほどに、本当に魅力的な大人の男性だと思う。
 付き合い始めてからそんなに経ってはいないが、片思いの時よりも想いが強くなっていることを感じていた。
 香穂子は吉羅の姿を見て幸せな気分を味わった後で、声を掛けようとした。
だが。
「…あ…」
 吉羅の横にはお約束通りなぐらいに美しい女性が現われて、香穂子のこころを乱す。
 こんなにも息苦しいことは他にないのではないかと思うぐらいに、ショックだった。
 女性は吉羅と親しそうに横に立つと、妖艶な笑みを浮かべて話をしている。
 その様子を見ていると、ふたりともなんてお似合いなのだろうかと思わずにはいられなかった。
 妖艶で大人の女性。
 それに対して自分はどうなのだろうか。
 全くそのような雰囲気は皆無といっても良い。
 その証拠に、吉羅は付き合ってくれてはいてもキス止まりで、それ以上のことをしてはくれないのだから。
 子どもだと思っているのだろうか。
 それとも、ただの暇つぶしだと思っているのだろうか。
 その辺りはよく分からないが、そうだとしたらなんて哀しいことなのだろうかと思った。
 何も出来ずにいると、不意に肩を叩かれる。
 振り返るとそこには衛藤桐也の姿があった。

 吉羅はビジネス上のミーティングを終えて、少し疲れた気分でビルを出た。
 ミーティングは上手くいき、学院のビジネスにとっても良い方向に行く道筋をつけることが出来た。
 それはとても嬉しいことではあるが、かなり疲れたことも否定は出来なかった。
 こんな時には、愛するヴァイオリニストに逢いたいと思う。
 あの笑顔を見つめるだけで疲れが吹き飛び、キスをするだけでエネルギーを得ることが出来る。ヴァイオリンの音色を聴けばこころから癒されて、華奢でまろやかな躰を抱き締めれば、最高の幸せを感じる。
 これほどまでに愛しく感じ、また幸せにしてくれる女性など今までいなかった。
 生まれてから一番愛した相手に間違ない。
 これからも香穂子以上の相手は現れやしないと、吉羅は確信している。
 だからこそ、大切で大切で堪らない存在なのだ。
 最も失いたくはない相手だ。
 それゆえにことを運ぶことに対しては、かなり慎重になってしまう。
 吉羅は香穂子のことを想うだけで、温かで甘い感情を感じずにはいられなかった。
 これから連絡を取って、香穂子と食事がしたい。
 そうすればまた明日への活力を沢山得ることが出来るのだから。
 吉羅が携帯電話を手に取ったところで、誰かに肩を叩かれた。
「…暁彦さん、お久し振り」
 振り返った先にいたのは、吉羅がかつて付き合っていた女だった。
 妖艶な美しさがある知性溢れた女性ではあったが、溺れることは全くない相手だった。
 常に冷静でいられたと言っても良い。
 何処か冷たさを感じさせるような女性だったから。
「久し振りだね」
「暁彦さん、仕事の帰り?」
「そうだが、これから知人に逢うから急いでいる」
 吉羅はあくまでビジネスライクに淡々と話をする。
 もう終わった相手に、特別な感情を抱くなんてことは、先ず有り得ないのだ。
「…暁彦さん、それは残念だわ。お茶でもと思ったのですけれど」
「生憎、申し訳ない」
 吉羅はさらりとそこまで言ったところで息を呑む。
 交差点を隔てた向こう側で、香穂子が衛藤と親しそうに話をしているのが見えた。
 ふたりの間に何もないのは解ってはいる。
 解ってはいてもどす黒い感情を回避することが上手く出来なかった。
 衛藤は吉羅の憎めない従弟ではあるが、香穂子を巡っては話は別だ。
 香穂子は吉羅にとってこころから大切な相手なのだから。
 それを奪うことは、いくら衛藤でも赦すことなど到底出来ない。
 吉羅は、嫉妬に塗れた視線をふたりに向けてしまう。
 こんな感情は、香穂子が絡むからこそ抱いてしまうものなのだ。
 香穂子を愛してしまうまでは、全く知らなかった感情だ。
「…失礼、知人が見つかった。これにて失礼する」
 吉羅は冷たい声で女に告げると、素っ気無く香穂子のところへと向かう。
 香穂子と自分の間には、何人たりとも入ることは赦さない。
 邪魔することは赦さない。
 それほどまでに、香穂子を失うのが怖かった。
 香穂子を抱いてしまった後、失ってしまうことへの恐怖が増すことが怖くて、未だに抱けやしない。
 それほどまでに大切でしょうがない相手だった。
 だからこそ誰にも渡したくはない。
 吉羅は歩みを早めると、香穂子に近付いていった。

「新しい楽譜を買ったんだ」
「うん。色々ためしたくて」
 香穂子は大切に楽譜を見つめながら、ほんのりと微笑む。
「その楽譜の練習…、俺で良かったら…その…見てやっても良いけれど」
 衛藤はほんのりと照れながらも、相変わらずの不遜な態度を取る。
「うん、有り難う、衛藤君」
 香穂子が笑顔で答えたところで、背中をポンと叩かれる。
「香穂子」
「「暁彦さん」」
 “暁彦さん”とごく自然に呼んだのが、衛藤には驚きだったらしく、目を丸くしてふたりを眺めている。
「…まさかふたりは付き合っているってことは…」
 衛藤は信じられないとばかりに髪をかき上げる。
「そのまさかだったら、どうするかね?」
 吉羅はごく自然に香穂子の手を握り締めてくる。
 突然の甘いときめきに、香穂子はどうして良いかが解らなかった。
「…まさか…?」
「そのまさかだ。香穂子とは待ち合わせをしていたのでね。一緒に帰らせて貰うよ」
 吉羅の言葉に、香穂子は目を見開く。
 そんなことは約束してはいない。
 しかも吉羅は、美しい女性と逢っていたではないか。
「…あ、あの、暁彦さん…」
 香穂子はときめきで息苦しくなるのを感じながら、吉羅を見た。
「行こうか。一緒に食事に」
「…はい…」
 吉羅にこうして手を握り締められると弱い。
 香穂子は頷くと、吉羅に着いてゆく。
「桐也またな」
「衛藤君、また、今度」
「あ、ああ。また…」
 呆気に取られている衛藤を残して、香穂子は吉羅に引っ張られるように歩いた。
「…桐也と約束でもしていたのかね?」
 静かなトーンで吉羅に言われて、香穂子は俯く。まるで責められているかのようだ。
「…いいえ」
 香穂子は答えた後、吉羅を見つめた。
「暁彦さんこそ、先ほどの女性は…」
 吉羅は眉を上げると、香穂子を見た。
「約束なんてしていない」
「…そうですか…」
 そう言われるだけで、本当にホッとする。
 吉羅に相応しい相手であったからこそ余計だ。
「少しドライブをして食事でもしようか…」
「…はい…」
 吉羅は駐車場まで連れていってくれると、いつものように愛車にエスコートをしてくれる。
「…有り難うございます」
 香穂子はまだ先ほどの嫉妬が燻っていて、余り気分は良くない。
 静かにしていると車が動き出して、吉羅が声を掛けてきた。
「どうしたのかね?」
「暁彦さんは、私のことを子どもだと思っているのかと思っただけです…」
「…子ども…ね…」
 吉羅は皮肉げに言うと、車を路肩に止める。
 その瞬間、力強く抱き寄せられた。



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