前編
秘密の恋をしています。 誰にも言えない恋。 いつもそのひとを思うたびに、甘くて切ない痛みを持て余す。 幸せと切なさが交差して、いつもいつも泣きたくなる。 大好きでたまらないひと。 だけどそのひとは、手を伸ばしても届かない。 違う世界に住んでいるひと。 廊下ですれ違った瞬間、心臓がとくとくと煩い音を奏でた。 「日野君」 声を掛けられて、香穂子は一瞬足を震わせる。 「は、はいっ」 どうしてこんなにも緊張してしまうんだろうか。 「日野君、ヴァイオリンの調子はどうかね?」 「はい。まあまあ…というか…」 「音楽科への転科はもうすぐだからね。しっかりと頑張りたまえ」 「は、はいっ!」 以前ならこんなにもドキドキすることなんてなかったのに、最近は、吉羅を見るだけで鼓動がおかしくなっている。 「日野君、放課後、時間があればヴァイオリンを弾きにきてくれないかね?」 「はい」 香穂子は頬を赤らめると、僅かに頷いた。 「では、放課後に」 「はい」 香穂子は吉羅の後ろ姿を見送った後、大きく深呼吸をする。 嬉しい深呼吸に、香穂子は思わず頬を赤らめてしまう。 放課後が楽しみだ。 練習室が取れているのは下校前の最後の時間だから、それまでは吉羅にヴァイオリンを弾いてあげられる。 香穂子は放課後のひとときが何よりも楽しみになってしまうほどに、吉羅が好きだ。 香穂子はニコニコと笑いながら、放課後を楽しみにしていた。 理事長室に行くと、妙に緊張してしまう。 香穂子は背筋を伸ばすと、しっかりとノックをした。 「理事長、日野です」 「入りたまえ」 香穂子がゆっくりと理事長室に入ると、吉羅は仕事の手を一旦止める。 「日野君、では早速始めてくれないかね」 「はい」 吉羅は万年筆を置くと、静かに香穂子を見た。 こうして見つめられるだけで、全身が心臓になったように鼓動が激しくなる。 吉羅の落ち着いた大人の雰囲気に、香穂子は酔っ払ってしまいそうな気分になった。 香穂子の細胞の総てが、吉羅が素敵だと囁いている。 細胞レベルですらも、吉羅に恋をしてしまっている。 香穂子は、静かな吉羅をじっくりと見惚れてしまった。 「…日野君、ヴァイオリンを弾かないのかね?」 「あ、は、はいっ! ひ、弾きます」 香穂子は深呼吸をして、何度も息を整えた後、ヴァイオリンを構える。 今日、弾こうとしている曲は恋の曲だ。楽しく麗らかな恋の喜びを表している曲だ。 吉羅に恋をしている香穂子には、これ以上にぴったりな曲はないのではないかと思った。 香穂子がヴァイオリンを弾くと、吉羅は静かに目を閉じる。 吉羅の耳が満足して貰えるようにと、香穂子はこころを込めてヴァイオリンを弾いた。 ヴァイオリンを弾いていると、吉羅への想いが音に乗って、いつもよりも音が華やいでいるような気がする。 ヴァイオリンにも感情はある。 曲に見合った感情を乗せられなければ、いくら巧みな演奏であったとしても、人々に感動を与えることが出来ないのだから。 ヴァイオリンを弾き終わると、吉羅は静かに目を開けた。 「まあまあだね。以前に比べたら、上手くはなっているがね」 吉羅が頷いてくれたから、香穂子は安心した。 だが吉羅の表情はといえば、相変わらずのポーカーフェースで、本当にこころからそう思われているのかが、不安になった。 「ところで日野君、次の土曜日は空いているかね?」 いつもの食事の誘いだ。 吉羅とは付き合ってはいないが、こうして香穂子を時折誘ってくれるのだ。 いつもそばにいたいから、香穂子は頷いた。 「土曜日は大丈夫です。楽しみにしていますね」 「午前中は雑務が残っているから仕事をしなければならない。ランチを一緒に食べよう」 「はい、有り難うございます」 香穂子が微笑み返すと、吉羅もまた頷いてくれた。 約束をまた交わすことが出来て、このままスキップしたくなる。 今日の練習はきっと調子よく出来るだろう。 香穂子は嬉しい予感に気持ちを綻ばせていた。 吉羅との約束の日は、いつもほんの少しだけお洒落をする。 デートではないと自分には言い聞かせてはいるが、どうしても期待してしまうのが乙女心なのだ。 いつもは練習にパンツスタイルで行くことが多いのだが、今日はスカートだ。 だが気を衒ったものではなくて、あくまでナチュラルにする。 そこには恋心を隠している。 香穂子は駅前通りの一角に出ると、ヴァイオリンの演奏を始める。 今日からは新しい楽譜を試すために、少しばかり緊張してしまう。 夢中になってヴァイオリンを奏でていると、聞き慣れたクラクションの音が聞こえた。 振り返ると、吉羅の愛車が静かに停まる。 「日野君」 ドアが開くと同時に、吉羅が姿を表した。 いつもと同じ高級なスーツに身を包んだ、隙のない姿だ。 香穂子は吉羅のスマートで理知的な姿を目で楽しんだ後で、ニッコリと笑った。 「こんにちは、理事長」 「遅くなって申し訳ないね。さて、行こうか」 「はい、有り難うございます」 吉羅は香穂子のためだけに助手席のドアを開けてくれると、エスコートをしてくれた。 「どうぞ、お嬢さん」 「有り難うございます、理事長」 香穂子の言葉に、吉羅は苦笑いを浮かべる。「ここからは吉羅さんで良いよ」と付け加えながら。 「だったら、有り難うございます、吉羅さん」 香穂子の言葉に、吉羅は薄く笑った。 吉羅が連れていってくれたレストランは、ランチでもかなり格式の高いところだった。 いつも以上に他愛ないことを話しながら、香穂子は幸せな気分になる。 チラチラとふたりを見つめる女性が何人か見受けられる。 どの女性も、吉羅の完璧な男性ぶりを夢見るように見つめ、連れの香穂子を見て、安堵の溜め息を吐くのだ。 傍から見れば、ふたりの関係は、きっと恋人同士には見えない。それどころか叔父と姪、あるいは年の離れた兄妹ぐらいにしか見られていないのだろう。 解っているからこそ切ない。 いつも吉羅と食事をする度に、人々の視線が痛かった。 食事を楽しんだ後は、吉羅はいつもドライブに連れていってくれる。 香穂子が車を乗るのが大好きなのを、知っているからだ。 「今日は海に行きたいかね? それとも山手かな?」 「海が見たいです。海岸に出たいです」 「解った」 吉羅は香穂子のリクエストに応じて、海に車を走らせてくれる。 食事とドライブだけのデート。 それはいつも飛び上がるぐらいに嬉しいけれども、あくまでデートなんかじゃない。 デートではない、ただの同胞とのお出かけなのだ。 吉羅はそれを強調するかのように、触れても来ないのだ。 触れて欲しいのに。 吉羅は絶対に触れて来ない。 きっと女としての魅力が乏しいからだ。 いくら背伸びをしたところで、香穂子は艶やかな大人の女性にはなりきられない。 吉羅はそれをよく解っているのだ。 だから決して香穂子に指一本触れやしないのだ。 このもやもやとした気持ちを吹っ切りたくて、海岸に出るなり、香穂子は裸足になって波打ち際へと走っていく。 こうして波と追っかけっこをしている間は、吉羅への切ない気持ちを忘れることが出来るだろうから。 「日野君、余り燥がないように。気をつけたまえ」 「解っています!」 吉羅はあくまで波打ち際には近付いて来ない。 じっと遠くで見ているだけだ。 香穂子はどうしようもないほどの距離を感じながら思う。 これが理事長と生徒の距離感なのだと。 |