*KISSの代償*


 理事長室に来るようにと言われ、香穂子はヴァイオリンを片手に向かう。
 春のオーケストラが終わってからというもの、学院内で吉羅とは余り接点がなくなっていた。
 相変わらず吉羅と土曜日は食事に出かけるが、本当にそれだけだ。
 他愛のない音楽の話をして終わるのだ。
 幸せな時間である筈なのに、いつも何処か切なかった。
 香穂子はときめきながら、理事長室のドアをノックする。
「吉羅理事長、日野です」
 名乗ったにもかかわらず、吉羅からは全く返事がなかった。
「吉羅理事長…?」
 もう一度呼んでみたものの、吉羅からは何の返事もない。
 香穂子は溜め息を吐くと、今度はもう少し激しくノックをしてみた。
「吉羅理事長、日野です!」
 大きな声で言ったにもかかわらず、全く返事はなかった。
 香穂子は溜め息を吐きながらそっとドアノブに手を掛けると、お約束通りにノブは回り、ドアが開いてしまった。
「…開いた…」
 ドアをそっと開けて香穂子は理事長室の中に入る。
 するとお約束通りに、吉羅は来客用のソファで眠っていた。
「…ひとを呼び出しておいて理事長様はお昼寝ですか…」
 香穂子は悪態を吐きながらも笑みを浮かべ、吉羅にそっと近付いていく。
 吉羅が眠っている姿を見る度に、あどけなさを感じる。
 自分よりもずっと年上には見えない。それ程、吉羅は少年のようだった。
 眠っている吉羅を見ていると、その完璧な程に整っている顔に、改めて注目する。
 本当にうっとりとしてしまうほどに、吉羅は素敵だと思ってしまう。
 特に唇。
 何処か酷薄な雰囲気が漂う唇は、艶やかだ。
 じっと見つめているうちに、この唇でキスをされたら、どんなにか素敵な気分になるだろうか。
 吉羅からされるキスが、世界で一番素晴らしいキスのように思えた。
 我慢が出来ない。
 吉羅の唇に触れたい。
 ほんの少しなら触れても構わないだろうか。
 吉羅にキスをされたら、それこそ世界で一番幸せな女の子になれるような気がした。
 鼓膜が破れてしまうのではないかと思う程に鼓動を激しくさせながら、香穂子は吉羅の唇に自分のそれを近付けていく。
 ファーストキスですら未だなのに、こうしてキスしたくなるなんて、吉羅のマジックはなんて強いのだろうかと、香穂子は思った。
 緊張しながら、ただゆっくり、ゆっくりと、吉羅の唇に近付いていった。
 唇が儚げに重ねて行く。
 触れるだけの青い果実のようなキス。
 香穂子には幸せなキスだ。
 吉羅の唇は生々しい感触で、夢見ていたものとは違ってはいたが、それ以上に滑らかな感覚がする。
 生々しいのになんてロマンティック。
 本当は、夢見る感覚よりも現実のほうがよりロマンティックなのかもしれない。
 香穂子は唇を重ねるだけで、キスが具体的にどのようなものかが分からなくて、吉羅の唇からそっと離した。
 涙が滲む。
 結局は、一方的にキスをして自分勝手な想いに浸ってたに過ぎないのだから。
 香穂子はへなへなとソファの前に崩れてしまうと、暫く、吉羅の様子を見つめるしかなかった。
 香穂子がキスをしてから暫くして、ようやく吉羅の睫毛が震えた。程なくして瞳が開けられる。
 吉羅の瞳に自分姿が映し出されて、何処か夢見るような気分になる。
「…日野君…か」
 吉羅はまだ夢から醒めないような声で名前を呼ぶと、躰をゆっくりと揺らす。
 長めの前髪が無造作に揺れてとても艶っぽい。
 吉羅はひとつ息を吐き出すと、香穂子を見た。
 ドキリとしてしまうほどに色気のあるまなざしに、香穂子はうっとしとしてしまう。
 春の夕暮れ特有の優しい陽射しが差し込んできて、吉羅を美しい絵画のように照らしている。香穂子は 思わずうっとりと溜め息を零した。
 ソファから立ち上がると、吉羅は既にいつもの隙ないクールな雰囲気に戻っていた。
「あ、あの理事長、今日は何か御用でしょうか?」
「久し振りに君のヴァイオリンを、ひとりで楽しみたいと思ってね」
「あ、有り難うございます」
 吉羅に、放課後の小さな演奏会のヴァイオリニストに指名して貰えるのは、香穂子としては嬉しい。
 吉羅をじっと見ると、先程から何ら変わってはいない。
 キスしたことがバレていないだろうか。それだけが気掛かりだ。
 ドキドキしていると、吉羅は怪訝そうに眉を寄せる。
「…日野君、今日の君は何時にも増して落ち着きがないが、どうしたのかね…?」
 吉羅の指摘に、香穂子は慌ててヴァイオリンの準備をする。
 いつも通りのクールなまなざしでありながら、何処か色香のある吉羅の瞳に、ドキドキさせられる。
 気付いたのだろうか。あのキスに。
 そんな筈はないと自分に言い聞かせながら、香穂子は深呼吸をする。
 ここは落ち着かなければならない。
 なのに吉羅の視線が気になってしまう。
 ようやく呼吸が落ち着いたところで、香穂子はヴァイオリンを構えた。
「では早速、弾きますね」
「…ああ」
 今日のときめきを音で現わすならば、“優しき愛”がぴったりではないだろうか。
 吉羅への恋心を感じる時は、いつも春の陽射しのように心地が良い暖かさで、夏の陽射しのように情熱的だから。
 香穂子は、吉羅への気持ちを音に乗せて、温かくて大好きな曲を奏でた。
 吉羅の理事長就任式にも演奏した、とても大事な曲だ。
 吉羅に対する大切な想いを音に託して、香穂子はヴァイオリンを奏でた。
 ヴァイオリンを弾き終わると、吉羅だけの拍手が理事長室に響き渡る。
「…また上手くなったね。君には英才教育プログラムを組んでいるからテクニックが向上しているのは当然だが…、それ以上に、音で表現する感情や情景が豊かになっている。これは君の特性ではあるが、より良くなっているね」
 吉羅が褒めてくれるのが嬉しくて、香穂子は笑みを綻ばせる。
 吉羅が褒めてくれることなんて滅多にないからそれが嬉しくてしょうがなかった。
「恋の曲の表現が上手くなっているが、誰かに恋をしているのかね?」
 落ち着いた艶のある声で優しいリズムを刻まれて、柔らかなまなざしを向けられる。
 途端に、香穂子は落ち着かなくなってしまい、耳まで真っ赤にさせた。
 まさか目の前にいる大人の男性に、背伸びをして恋をしているなどとは香穂子は言えなくて、モジモジとした気持ちを表わすかのように、耳まで紅に染め上げた。
 落ち着かないでいると、吉羅は甘くフッと微笑んでくれた。
 その笑みが甘くて、くらくらしてしまう。
 脚が僅かに震えてしまうほどに、吉羅に魅力を感じているだなんて、香穂子は口が裂けても言えなかった。
「…まあ、誰が好きかということを、私がそんなに追求することもないか…」
 吉羅のひとりごちるように呟いた声の響きはひどく魅力的で、このままだとときめく余りに死んでしまうのではないかと、香穂子は思った。
「ところで、日野君、明日は土曜日だ。何故かまる一日休みが出来てしまってね。君が良ければ、一日、一緒に過ごさないかね?」
「……!」
 嬉し過ぎて、息が止まってしまいそうになる。
 まる一日、吉羅と一緒に過すのは初めてだ。
 夢見ていた一日デート。
 こんなにも嬉しいことはないと香穂子は思う。
 飛び上がって喜びたいのを何とか抑えて、香穂子は吉羅に頷く。
「はい。楽しみにしています。宜しくお願いします!」
「では、明日は九時半に君を迎えに行く。待ってくれていたまえ」
「はい」
 香穂子は元気良く返事をしながら、夢見るようなデートを想像していた。



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