*KISSの代償*

2


 前日にデートを言い渡されたものだから、香穂子は慌てて準備をする。
 少し前に解っていれば、それなりにお洒落の準備も出来ただろうが、吉羅の仕事がかなり忙しいからしょうがなかった。
 だがこうして一日一緒にいてくれるのが、何よりも嬉しい。
 吉羅と一緒に過ごす長い時間を本当に夢見ていたのだから。
 香穂子は、姉から貰ったとっておきのシートパックをして、肌の状態を整える。
 綺麗に見て貰いたいというのは、恋する女の子なら特別なことでも何でもないのだから。
 吉羅にはうっとりと見つめて欲しい。
 綺麗だと言われたい。
 可愛いと言われたい。
 吉羅に恋をするようになってからというもの、香穂子は自分の内面は勿論のこと、見た目にもこだわって磨きをかけてきた。
 まだまだのところは沢山あるが、美容の先輩である姉に訊いたり、姉の雑誌を見たりして、研究に余念がない。
 恋は凄い原動力だ。
 香穂子を努力へと導いてくれているのだから。
 吉羅に喜んで貰いたいから。
 綺麗だと言われたいから、香穂子はそれだけで、一心に努力をしていた。

 翌日、今の時点ではベストの状態を保って、吉羅を待ちわびる。
 家の前で待っていると、吉羅が颯爽と愛車フェラーリで現れた。
 運転席のドアが開くだけでドキドキする。
「…お待たせしたね、日野君」
「おはようございます、理事長」
 香穂子が丁寧に挨拶をすると、吉羅はいつものように僅かにクールな笑みをくれるだけだ。
 こうして、吉羅が時間を割いてくれるだけでも嬉しいのだから、それ以上の贅沢なんて言える筈もなかった。
 吉羅は、助手席のドアを開けてくれると、香穂子をエスコートしてくれる。
「どうぞお嬢さん」
「有り難うございます…」
 香穂子はお姫様にでもなった気分で優雅に頷くと、助手席に乗り込んだ。
「日野君、水族館何かはいかがかね?」
「水族館ですか! とっても嬉しいです。久し振りに綺麗なお魚が見られるのが、とても嬉しいです」
「そうかね。だったら新江ノ島水族館あたりに行こうか。あの辺りなら、美味しい魚介を食べさせてくれる店もあるからね」
「有り難うございます。とても楽しみです」
 香穂子は笑顔で吉羅を見上げて、にっこりと微笑む。
 吉羅が選ぶ店は、何処も美味しくて素晴らしい。それが香穂子にはいつも嬉しい。
「君は魚を食べるのも見るのも、両方好きなんだね」
 吉羅がおかしそうに笑う唇がいつもよりもセクシーで、香穂子は鼓動を高める。
 昨日、一方的にしてしまったファーストキスを思い出して、恥ずかしくて堪らなくなる。
 今日の吉羅はサングラスを掛けているせいで、唇が強調されていて、余計に色気が滲んでいる。
 香穂子は息を少し乱しながら、吉羅を見つめずにはいられなかった。
 見つめていると恥ずかしいのに、どうしても見つめずにはいられない。
 吉羅の魅力は、香穂子を完全に魅了してしまっている。
「今日はゆっくり出来るから、君ものんびりと羽根を伸ばすと良い」
「今日は随分とサービスが良いんですね」
「日頃のご褒美だ。しっかり頑張っていると聞いているからね」
 車が信号に引っ掛かる。不意に吉羅の手が頭に伸びて来て、柔らかに頭を撫でられた。
「…あ…」
 まるで子どもにするようにも感じられるし、何処か官能的な香りも帯びている。
 イノセンスとセクシーの狭間にある危うい感覚が、香穂子を蕩けさせた。
 信号は直ぐに青に変わり、吉羅の手は香穂子から離れる。
 それが何処か切ない痛みを生んでいた。
 車は鎌倉を抜けて江ノ島方面を快適に走る。
 特に海ぞいを走ると、その気持ちの良い美しさに、香穂子はうっとりとした。
「綺麗で開放的ですね、海って…! もう少ししたら泳ぎたいなあって思いますよ」
「だったら夏になったら、ふたりで泳ぎに行くかね?」
「本当ですか!?」
 吉羅と一緒に泳げるなんて、こんなに嬉しいヴァカンスはないのではないかと思った。
「吉羅さん、海に行く時には是非誘って下さい」
「解った。ここよりも素晴らしいビーチを知っているからね。そこに君を連れて行こう」
「有り難うこざいます」
 吉羅が知っているビーチというのは、さぞかし瀟洒な雰囲気があるのだろう。
 それだけでも充分に楽しみだ。
 ただ、ふたりで一緒に行けるのならば、ダイエットに励んで、水着の似合う綺麗な躰にならなければならないと、香穂子は思った。
「楽しみですよ。本当に」
「それを実現出来るように、君はせいぜい頑張りたまえ。頑張ったご褒美にお連れしようかね、お嬢さんには」
「頑張ります」
 やはり相手は吉羅だ。
 ただ誘ってくれるわけではないのだ。
 誘って貰うには、しっかりとヴァイオリンを頑張らなければならないのだ。
「ヴァイオリン、頑張ります」
「ああ。君がどれ程成長してくれるかどうか、私は楽しみにしているよ」
「有り難うございます」
 香穂子が笑顔を浮かべつつ、吉羅に凜としたまなざしを向ける。
「夏も楽しみにするとしよう」
「はい。楽しみにされて下さい」
 香穂子がさも自信があるように言うと、吉羅もにやりと笑いながら、頷いた。
 車は水族館近くの駐車場に停められ、そこから中に入る。
「早く見られるのが楽しみです」
 香穂子が小さな子どものようについはしゃいでしまうと、吉羅は見守るような笑みを浮かべる。
「…君は無邪気だね」
「だって水族館に来るのは本当に久しぶりですから、たっぷりと見たいんですよ」
「ああ、じゃあたっぷりと楽しみたまえ」
「はい」
 本当は吉羅と一緒にいるからはしゃぎたいだけなのだ。
「えっと、熱帯魚は…」
 足下が暗いことを忘れて、香穂子は夢中になって魚を探す。
「あっ!」
 香穂子は燥ぎ過ぎてしまっていたせいか、足下を取られてしまう。
「日野君!」
 吉羅の声がすると共に、華奢な躰を抱き留められる。
 しっかりと受け止められて、香穂子は驚いて鼓動を跳ね上げさせた。
 吉羅の腕は逞しくて、香穂子は息を乱しながらもうっとりとしてしまう。
「大丈夫かね? 息が乱れているようだが…?」
「…平気です…。有り難うございます」
 暫くこうして抱き締めていて欲しいだなんて、かなり我が儘なのは解っている。
 だが、そう願わずにはいられない。
 香穂子が全身を熱くさせながら、吉羅の腕に素直に収まっていると、不意に抱擁は解かれた。
 吉羅の抱擁が消え去り、香穂子は失望の溜め息を小さく吐く。
「日野君、君は相変わらず不注意だね」
「…す、すみません…」
「…まあ、良い…」
 吉羅は呆れ返るように言いながらも、香穂子の手をギュッと握り締めてくる。
 心臓がいくらあっても足りないような展開に、香穂子は呼吸を乱す。
「…こうしていれば、君も躓くことはあるまい?」
「そ、そうですね…」
 舌が上手く回らないのを感じながら、香穂子は頬をほんのりと赤らめて笑った。
「行くか。君が望んでいる熱帯魚やらを見に」
「はい」
ふたりはリアルな恋人同士のように、手を繋いで見つめ合うと、熱帯魚展示へと向かった。
 
 水面に自由闊達に泳ぐ熱帯魚は宝石のように美しい。
 それよりも、横にいる吉羅のほうが素晴らしいと、香穂子は思ってしまう。
 素晴らしく綺麗な吉羅。
 こんなに近くにいるのに、そのこころは遠いのだ。
 とても綺麗で切ない色に、香穂子は胸を痛くする。
 恋はなんて甘苦いものなのだろうか。



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