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恋は味覚に似ている。 甘い物としょっぱい物が交互にやってきて、より甘さを体験したいから、しょっぱいものまで受け入れてしまう。 香穂子はそれを吉羅と自分の恋に重ね合わせた。 無断で好きになってしまったから、一方的な恋には違いがない。 それをこうして一緒にいると、ひしひしと感じてしまうのだ。 「…日野君、熱帯魚は楽しいかね?」 吉羅の声に、香穂子はハッとして顔を上げる。 「…た、楽しいですよ。綺麗でキラキラしていて」 ごまかすように笑顔で言い、香穂子は視線を水槽に集中させる。 とても綺麗な海の宝石箱だ。 「…本当に綺麗ですね。水槽のなかのお魚…。うっとりと見てしまいます」 香穂子が賑やかなうっとりを声に滲ませると、吉羅は手を強く握り締めてきた。その強さが、香穂子にうっとりとしたときめきを生む。 「熱帯魚は確かに綺麗だがね…」 吉羅はそこまで言うと、意味ありげに、香穂子の手を握り締める。 「だが、君を見ているのも楽しい限りだよ。私は」 吉羅の言葉に、香穂子は頬を染めてはにかんだ笑みを浮かべる。 吉羅が応えるように僅かに笑ってくれたのが、嬉しかった。 様々な展示を見た後で、ペンギン展示のところで立ち止まる。 「ペンギン! 可愛い! あっ! アデリーペンギンがいますよ! 私、大好きなんです!」 香穂子はアデリーペンギンのつがいを見て、うっとりとした気分になる。 「私には、ペンギンはどれも同じように見えるがね」 吉羅は香穂子をまるで子どものようだと言わんばかりに、柔らかな視線で見つめている。 「吉羅さん、アデリーペンギンは、そんじょそこらのペンギンじゃないんですよ。彼らは、一度パートナーを決めると、ずっと生涯添い遂げるんです。どのペンギンにも見向きもせずに…。これって、とてもロマンティックなことじゃありませんか?」 香穂子は、まだ初々しい少女そのもののような恋の憧れを滲ませながら呟く。 アデリーペンギンは、香穂子の理想だ。 小さな頃にその話を聞いて、自分自身の将来も、大好きなひととそうなりたいと思っていた。 吉羅にとっては、きっと夢物語に過ぎないだろう。 だがアデリーペンギンのように、いつか吉羅とそうなれたらと、香穂子は思わずにはいられなかった。 「アデリーペンギン…ね…。人間にも見習わせたい習慣ではあるが…、飽きやすいのが才能でもある人間には…、とうてい真似が出来ないね…」 吉羅は苦笑いを浮かべながらも、香穂子の手をしっかりと握り締めてくれる。 それが嬉しいときめきを生む。 香穂子が頬を染め上げて吉羅を見上げると、まるで肌を愛撫するかのようなまなざしをくれた。 それが嬉しかった。 水族館を堪能した後は、吉羅がお勧めの魚介を使ったフレンチが食べられるレストランへと向かう。 駐車場に向かうまでは、手をしっかり繋いでいてくれたのが嬉しくてしょうがなかった。 海が麗しく見えるテラス席でランチを取るなんて、相手が吉羅だからこそ出来ることなのだと思う。 「このサラダ物凄く美味しいです!」 「君はご馳走しがいがあるよ。いつもリアクションが素直だからね。私もやりやすい」 吉羅が珍しく褒めてくれるものだから、香穂子は妙に照れ臭くなってしまう。 勿論それは、ときめく余りのリアクションではあるのだが。 美味しい食事と目の前には素敵なひと。 気の効いた会話をする才能も知識も残念ながらないけれども、それでもとても心地が好いひとときだ。 大好きなひとと一緒なのだから当然ではあるのだが。 香穂子は海風を浴びながら食事を楽しみ、なんて幸せなのかと思う。 うずうずしてしまうほどに幸せな時は、やはりヴァイオリンを弾きたくなってしまうのだ。 「ヴァイオリンを弾きたいですね。こんなに気持ちが良いと」 「ヴァイオリンは持って来ているのかね?」 「勿論です。いつも一緒ですから」 香穂子の笑みに、吉羅は眩しそうに微笑む。 「君にそこまで愛されるなんて、私はヴァイオリンが羨ましいね」 さりげなくいつもの落ち着いた声で言われると、香穂子はドキリとする。 こんなにも甘い吉羅を見るのは、かなり珍しいことだから。 耳まで真っ赤にしながら、香穂子が自然と上目遣いで見つめると、吉羅はただ微笑むだけだった。 食事が終わった後、吉羅とふたりで海岸に出る。 勿論、香穂子の手にはヴァイオリンケースが持たれている。 「じゃあ、ラフマニノフとサティを弾きますね。何だか私の気持ちなんですよ、今の」 「ああ。聴かせて欲しい」 「はい」 吉羅に対する熱くて何処か淡い雰囲気のある恋心を、どうか音色から伝わりますように。 香穂子は、吉羅に向かって一礼をすると、ヴァイオリンを奏で始めた。 大好きなひとのために。 ラフマニノフ、そしてサティ…。 サティの“ジュ・トゥ・ヴ”は、かつて吉羅から貰った楽譜だから、とても大切な曲だ。 香穂子が、そして吉羅の姉の美夜も大切な曲。 これほどまでに熱情な曲はないのではないかと思う。 香穂子は、吉羅への想いを滲ませながら、ヴァイオリンが奏でた。 ヴァイオリンを奏でた終わり、ようやく視線を吉羅に向ける。 すると頷きながら、吉羅は拍手をしてくれた。 「また上手くなったね。理事長室にもたまには顔を出して、演奏をして欲しいものだね」 「また演奏しに行きます」 「ああ」 吉羅は嬉しそうに頷くと、香穂子は約束をするとばかりに頷いた。 「…さてと、折角、海に来たのだから、散歩でもしようか」 「はい、喜んで!」 香穂子がヴァイオリンをケースのなかに片付けると、吉羅が持ってくれたうえに、手まで繋いでくれる。 「…あ…」 恥ずかしいのに嬉しくて、香穂子は頬を染めながら吉羅を見上げる。 「また君が躓かないとは限らないからね。ヴァイオリンも大事なものだから、落してしまうわけにはいかないだろう?」 「そうですね…」 香穂子が頷くと、吉羅はフッと笑う。 ふたりで砂浜をゆっくりと歩き出す。こんなにも心地が好いふわふわとした散歩は、他にない。 「こうしてお散歩をすると、本当に気持ちが良いですね。お散歩って季節の風を感じられるから、大好きなんです…」 香穂子が笑うと、吉羅もまた笑ってくれた。 「私も忘れていたかな…。ずっと…。季節ごとの風には、それぞれ相応しい色があることを、私はずっと忘れていたよ…。君に久々教えて貰って、感謝しないとね」 吉羅のストレートな言葉に、香穂子は笑顔で頷いた。 「私こそ感謝しています。吉羅さんと感じる風は、本当に最高に気持ちが良いんです」 「だったら、暫くこうしていよう。君と海を眺めるのも悪くないからね」 「有り難うございます」 ふたりは夕陽が落ちるまで、ただ散歩をする。 特に何をするわけではないのに、こうして散歩しているだけで幸せだった。 夕方になり、今度はディナーに連れて行ってくれる。 そのレストランも、夜景が美しく見えて、とても良かった。 勿論、食事はいつも以上に満足だ。 デザートが出てきた時、香穂子は泣きそうになった。 いつもは大好きなデザートではあるが、これを食べ終われば、吉羅との時間が終わってしまうのだ。 「…どうした? 食べないのかね?」 「あ、い、頂きますっ」 「早く食べたまえ。ここから出たら、君にはキスの代償を払って貰わなければならないからね」 吉羅の甘く意地悪に響く声に、香穂子は固まった。 |