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こうして定期的に逢って、話をして、コンサートに行って食事をする。 それでも恋人同士じゃない。 吉羅に“男女として付き合ってはいない”と高らかに宣言されてから、香穂子は自分たちの関係が一体何 なのかを繰り返し考えるようになった。 友人とは違う。 色々と相談に乗って貰ってはいるが、それだけだ。香穂子としても大人の男性の適格なアドバイスを求めているに過ぎない。 兄妹。 これも少し違う。 兄妹ならば、こんなにも男女の香りが漂うような関係ではないはずだ。 だったら何だというのだろうか。 本当にいつもいつも考えることだ。 吉羅との関係は何だろうか? ファータが見えるといった「同胞」だけではない。 男女の要素も、兄妹の要素もある不思議な関係だ。 男女のバランスのなかで保っているあの危うい関係を、一体、何というのだろうか。 解らない。 「親友」というには、少し感覚が違うような気がした。 今日も大学の授業の帰りに、高校にある理事長室に立ち寄る。 ヴァイオリンを弾く為だ。 こうして定期的にヴァイオリンを演奏した後で、一緒に食事に行くのが定番になっている。 だからヴァイオリン演奏のある日は、さり気なくおしゃれに気遣っていた。 いつもよりも少しだけ女らしい服を着て、いつもよりも華やいだリップグロスを付ける。 ただそれだけのことなのだが、香穂子にとってはドキドキするシチュエーションには違いなかった。 理事長室の前に立つと、香穂子は緊張しながらノックをする。背筋は当然のごとく綺麗に伸ばす。 「理事長、日野です」 「入りたまえ」 「…失礼します」 香穂子が部屋に入ると、中にはいかにも仕事が出来るといった雰囲気の女性が立っていた。 また吉羅の甘い恋の相手になるのだろうか。 吉羅は、付き合い方も別れ方も心得ているから、女を選ぶのも、傷付くことなくいられる大人の女性ばかりだ。 そのリストに香穂子が入ったことはついぞない。 「では宜しくお願いします。私はこれで失礼します」 「ああ、宜しく頼んだよ」 女性はちらりと香穂子を見ると、ライバルに値しない子どもだと思ったのか、薄い笑みすら浮かべる。 それが何だか女として屈辱を受けたようで、気分が悪かった。 「理事長、ヴァイオリンを弾きに来ました」 「…ああ。早速頼んで構わないかね?」 「はい。喜んで」 香穂子はにっこりと小さな子どもよりも愛らしい笑みを浮かべると、早速ヴァイオリンを構える。 その様子を吉羅はじっと見つめていてくれた。 それが嬉しい。 「では、弾きます」 「…ああ」 吉羅は仕事の手を一旦休めると、静かに目を閉じる。 香穂子はいつもの吉羅の仕草を確認してから、ヴァイオリンを奏で始めた。 吉羅だけのためのコンサートを開いている時だけ、柔らかく温かな音が出るような気がする。 それは恐らく、吉羅への恋心から来るものだ。 吉羅への愛が深いからこそ、奏でられる音の艶なのだ。 だが、いつまで経ってもこの想いは叶えられることはない。 有名ヴァイオリニストになるために頑張ってはいるが、そこに辿り着くまでに、吉羅がひとりでいるという保証はないのだから。 現に、吉羅は、自ら手を下さなくても、良い女が寄ってくるような、女が放っておかないタイプの男なのだから。 ヴァイオリンを奏で終わると、香穂子は吉羅に頭を下げた。 「…日に日に上達しているね良いことだ。日野君、たまには恋に情熱的な曲を選択してはどうかね? 例えば、“カルメン”とかね…」 恋に情熱的な女の曲。 香穂子はそんな曲は難しいと思ってしまう。 ダイナミックに愛を表現出来たら良いが、生憎、そこまで表現する自信がない。 誰かと付き合ってみれば、そうなるのだろうか。 恋が叶わない吉羅のことは諦めて、違う相手と付き合えば、ダイナミックな音を出すことが出来るようになるのだろうか。 「“カルメン”挑戦してみます」 「ああ、頑張ってくれたまえ」 「はい」 香穂子は明るく返事をすると、吉羅に深々と頭を下げた。 「…では行きますね」 「ああ」 香穂子はもう一度頭を下げると、理事長室から出た。 その瞬間、溜め息が出る。 カルメンが情熱的に奏でることが出来るようになれば、吉羅と対等に渡り歩ける女になれるのだろうか。 香穂子は胸がチクリと痛くなる。 それには良い恋をして、男女の駆け引きを学ばなければならないような気がする。 それには吉羅以外の男と付き合ったほうが良いのだろうか。 香穂子はぼんやりと考えていた。 そんなことを考えていたからだろうか。 同じ専攻の男子学生に、いきなり告白されてしまった。 「付き合って貰えないかな? ずっと君を見ていた」 いきなりの告白に、香穂子は息を呑んで、瞳を見開いた。 告白なんて今までされたことなどなかったからだ。(コンクール仲間たちが香穂子を見守る為、当分は告白しない協定を結んでいたことを、勿論、知らない) 香穂子はどうして良いか分からなくて、男子生徒を見つめる。 何だか過分にドキドキしてきた。 「…あ、あの私で良ければ…、先ずはお友達から始めましょう」 香穂子はどう答えて良いかが分からなくて、無難な答えを選択した。 「…有り難う…。では先ずはお友達から」 「有り難う」 香穂子は、目の前の男子学生に笑いかけると、笑顔で返してくる。 この恋を大事に育てていけば、いつか“カルメン”を弾くことが出来るかもしれないと思った。 先ずはお友達からということで、一緒にお昼を食べたり、講義の合間にお茶を飲んだりといった、同性の 友人と変わりがない付き合いを始めた。 同じ世代の男の子と話すのは勿論楽しくて、香穂子はいつも笑顔でいられた。 だが、吉羅と一緒にいる時とは何かが違う。 楽しいし心地好いのは確かだが、ときめきはないのだ。 胸がキュンと痛むようなそんな感情を抱くことが出来ない。 友人の延長としてしか考えることが出来ないでいる。 きちんと向かい合って対応出来れば良いのにと、思わずにはいられなかった。 香穂子が同じヴァイオリン専攻の生徒と付き合い始めたという噂は、瞬く間に広がった。 事前に香穂子から聞かされていた天羽は、「香穂子には良い機会だよ」と言い、温かい目で見守ってくれていた。 その噂が、理事長である吉羅に届かない筈がなかった。 噂を聞くなり、吉羅は苛々してしまう。 香穂子が他の男と付き合うのは自由だということは、充分に解ってはいるつもりだ。 だがそれが許せない自分がいる。 香穂子の相手が許せないのだ。 吉羅は何も用はないというのに、視察のふりをして大学へと向かう。 すると香穂子と一緒に、ヴァイオリン専攻の青年が歩いているのが見えた。 ふたりとも本当に楽しそうで、笑顔で歩いている。 温かくて優しい恋を育んでいるかのように見える。 吉羅は、ふたりを見ているだけで、何故だか最高に気分が悪くなった。 香穂子とは、“有名ヴァイオリニストにならなければ男女としては付き合わない”と言ったのは自分だから、 香穂子が他の男と付き合っても文句は言えない筈なのだ。 にも拘らず、ふたりを引き離してしまいたいとすら思ってしまう。 香穂子が他の誰かのものになってしまうなんて、そんなことは認めたくない。 吉羅は握り拳を作ると、ふたりを厳しいまなざしで見つめるしかなかった。 |