*恋想曲*


 吉羅は、ふたりがなるべく逢えないようにと、逢いそうな時間帯には、香穂子を理事長室に呼び出し、ヴァイオリンを弾かせることにした。
 こうして離すことで、ふたりが自然消滅をすればとつい画策をしてしまう。
 今まで、誰かのものを手に入れる時であっても、自分からは何かを画策をするなんてなかったというのに。
 香穂子が相手だと、そんな愚かなことすらもしてしまいたくなる。
 改めて、香穂子が誰よりも愛しいということを気付かされる結果となった。
 吉羅は香穂子を呼びつけると、ヴァイオリンを弾かせる。
 香穂子はヴァイオリンを素直に弾いてくれ、その音が、誰よりも深みがあると感じていた。
「最近、ヴァイオリンが上達してきているね」
「有り難うございます。こうして理事長にヴァイオリンを弾くことが出来るのが、私には嬉しいんですよ」
 香穂子にただ微笑まれるだけで、吉羅はこころが強く満たされる。
「日野君、毎日ヴァイオリンを弾いて貰うお礼に、食事でもいかないか?今週の週末にでもね」
 吉羅は香穂子の様子を探るように見つめながら、いつもの柔らかな調子で呟いた。
 だが香穂子はにっこりと笑うと、頭を深々と下げる。
「申し訳ありません。その日は友人とヴァイオリン練習の後で、食事に行く予定なんです。ごめんなさい」
 香穂子が爽やかな笑顔で断ってくる。
 今までそんなことはなかった吉羅は、驚く余りに次の句を継げなかった。
 今まで女性に笑顔で断られたことなど、一度もなかったのに、日野香穂子はいとも簡単ににっこりと笑い、やんわりと断ってくる。
 吉羅は笑顔がひきつるのを感じながら、香穂子を見た。
「…それはしょうがないね…」
「申し訳ありません。また機会があれば誘って下さい」
 笑顔の香穂子は、今までで一番綺麗に思えた。
 こんなにも大人になってしまったのかと、思わずにはいられない。
 今は見守る立場にあるが、吉羅がそう出来なくなるのも時間の問題なのかもしれない。
「…君は…恋人でも出来たのかね…?」
 吉羅は一連の噂を思い出しながら、胃がいきり立つのを感じる。ムカムカして気持ちが悪いほどに。
「…恋人というか…友達というか…。今、仲良くしているひとはいますが…」
 香穂子は恋人とは言い切らなかったが、満更でもないような口振りだった。
 目眩がしそうだ。
 きっと株で大損するよりもショックに違いない。
 だがこんな気持ちを香穂子に見せるわけにはいかない。
 冷静になれと自分に言い聞かせながら、吉羅はわざとクールな無表情を装う。
 本当は、抱き締めて“こんな男は止めろ”と言いたいのに。
「…日野君…。それが音楽にとって良い作用に働くのならば、それは良いことなんだろうね」
「…そうですね…」
 香穂子はにっこりと笑うと、吉羅を見つめる。
 この澄んだ真っ直ぐな瞳に、間違っていると問い掛けてやりたい。
 だが、それは男としてのプライドが邪魔をして言えない。
「…では、失礼します」
「ああ。頑張りたまえ」
 吉羅は、頭を下げた後理事長室を出て行く香穂子を見つめる。
 姿が消えた瞬間、溜め息を吐くしかなかった。
「…香穂子…」
 このままではダメなのは解っている。
 何とかしなければならないことも。
 だが、今までは女性を真剣に愛情の対象としては見たことがなかったから、どうして良いのかが解らなかった。

 香穂子は溜め息を吐きながら階段を降りていく。
 やはり吉羅暁彦には、通じないのだ。
 香穂子が誰と付き合おうと、彼にとっては関係のないことなのだ。
 それがこころを更に切なくさせる。
 ならば、もう吉羅暁彦を恋愛対象から外してしまったほうが良いのではないだろうか。
 そんなことを考えてしまう。
 そうすればこころはもっと楽になるだろうから。
 なのに何処か踏切ることが出来ない自分が、香穂子は嫌で嫌でしょうがなかった。

 吉羅は苛々する余りに仕事が捗らない自分に、益々嫌気がさしていた。
 たかが恋愛だ。
 そんなに大袈裟に考えることはない。
 恋愛が総てなんかじゃない。
 ビジネスこそが自分の人生にとっては最大級に大切なものだ。
 そう言い聞かせても、愛がなければ薔薇色の未来なんてないと思っている自分がいる。
 愛がなければ、明るい光なんて差し込んでは来ないと、何処かで言っている自分がいる。
 痛くて切なくてしょうがないこの感情は、日野香穂子に対してでないと抱けない。
 吉羅は溜め息を吐くと、指を組んで口元に置いた。
 香穂子の存在が煌めきを増していく。
 どの女も色褪せて見えた。

 香穂子は、吉羅を理事長としてだけ見ようと努力を始めた。
 かと言っても、ずっと好きなひとだったから、吹っ切れるまでにはかなり時間がかかるだろう。
 出会ってから一年九か月と一週間。ずっと好きだった男性なのだから。
 だからこうして、気安い同世代と付き合うのは、良いリハビリになるかもしれない。
 彼には悪いが、これはリハビリの為のレッスンなのだ。
 吉羅以外の男性を好きになる為に必要なことだと香穂子は思っていた。
 吉羅を忘れる。
 これが第一歩なのかもしれない。

 次の週末、香穂子と言う名の温かな同胞がいない時間は、胸が痛くて寂しい時となった。
 吉羅はその寂しさを埋める為に、後腐れなく付き合うことが出来る女と一緒に食事をすることにした。
 その後はいつものお決まりのコースだろう。
 食事はスマートな会話ばかりだ。
 香穂子なら、いつも笑顔でとりとめの無い話をするのだが、吉羅を笑顔でいさせてくれる。
 吉羅のことをいつも気遣って、話題を選んで話してくれる。
 そして何よりも香穂子は聞き上手だ。
 一生懸命吉羅の話を聞いて、それを飲み込んでくれる。
 吉羅が沈黙を好む時は静かにしていてくれる。
 本当にとても有り難い存在と言っても良い。
 だが、今日の女は、吉羅をこころから笑わせてはくれない。
 吉羅をこころからは楽しませてはくれない。
 こんなにも香穂子と過ごす時間は貴重で、そして楽しいものであったかということを、吉羅は改めて思い知らされてしまった。
 余り楽しくはない時間を過ごした後、吉羅はその後を続ける気にはなれなくて、女を早々と帰してしまった。
 時計を見てもまだ九時前だ。夜はまだまだこれからだというのに、全くその気にはなれない。
 いかに香穂子が、自分の生活の明るく幸せな部分を担っていたかを、吉羅は改めて思っていた。
 いつもならば、お互いにもう少しそばにいたくて、少しだけドライブをするのだが、今夜はパートナーもいずにひとりだ。
 こんなにも孤独を感じたのは久しぶりだ。
 しかも香穂子は違う男と一緒にいるのだ。
 自分とは違う男と。
 それが腹立たしい。
 一回り以上も年下の男に、これほどまでの嫉妬をするなんて思ってもみなかった。
 吉羅の車がみなとみらい近くにかかった時、見慣れた人影を見つけた。
 直ぐに解る。
 日野香穂子だ。
 同じ世代の男子学生と歩いている。
 ここで別れるのか、立ち話をしている姿が見えた。
 その後、ふたりは別方向に歩き出す。
 吉羅は香穂子に向かってクラクションを鳴らすと、その横にゆっくりと車をつけた。
 香穂子が驚いたように振り返るタイミングで、吉羅は窓を開ける。
「日野君、送ろう」
 吉羅の言葉に、香穂子はにっこりと微笑む。
「有り難うございます」
 ドアを開けると、香穂子は車に乗ってくる。
 吉羅は灯をつけて迎えてやったが、首筋に紅い痕がついていることを見逃さなかった。



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