3
確かに楽しい夜ではあった。 だが、本当にそれだけで、吉羅と一緒にいるようなときめきもロマンスもひとつもなかった。 みなとみらいホールの前で別れる。 「楽しかったね」 「…そうだね」 年上の男性とばかり出掛けていたから、同じ年頃の男の子は、何故だか物足りない。 香穂子はこころの中で、つい溜め息を吐いてしまう。 不意に虫が飛んでいる不快な音が聞こえたかと思うと、首筋に止まるのが解る。 直ぐに手で潰したが、血を吸われた後だった。 「噛まれちゃった」 ティッシュで手を拭くと、目の前にいるデート相手は苦笑いをする。 「ちょっと遅かったみたいだね」 「そうだね」 香穂子がくすりと笑うと、彼は小首を傾げて微笑む。 「日野さんの家は学院の近くだったよね」 「うん」 「送ろうか?」 彼の申し出に香穂子は戸惑ってしまう。 ここからだとかなり家は近い。 今夜はひとりで帰りたい気分だ。 みなとみらいの夜景を見ると、つい吉羅を思い出した。 いつも吉羅と見ていた夜景を、今夜はじっくりとひとりで見たくなる。 「有り難う。だけどひとりで大丈夫だよ。今夜はこれで…。有り難う。また。ばいばい」 香穂子が手を振ると、彼も解ったとばかりに手を振ってくれる。 この優しさが嬉しかった。 「じゃあ月曜日に学院で」 「うん、月曜日に」 ふたりは反対方向に向かってゆっくりと歩き出す。 香穂子は、のんびりと夜景を見つめながらゆっくりと歩いてゆこうと思っていた。 不意に聞慣れたクラクションが聞こえる。 フェラーリのクラクションだ。 まさかそんなことはない筈だ。 吉羅が今夜をひとりで過ごすなんて、考えられなかったから。 ゆっくりと車が香穂子の横につく。 立ち止まり確認すると、やはり吉羅の車だった。 「…吉羅さん…」 「日野君、送ろう」 吉羅が窓から顔を出して、送ると言ってくれている。 それが嬉しくて、香穂子はつい笑顔になった。 「有り難うございます」 にっこりと笑うと、吉羅は助手席のドアを開けてくれた。 香穂子が車に乗り込むと、ほんのりと香水の香りがする。 吉羅のものではない、明らかに女性用の官能的なものだ。 香穂子は身を堅くする。 吉羅が自分以外の女性を助手席に乗せることが嫌でしょうがなかった。 香穂子の首筋に明らかな紅い痕が見受けられる。 あの男に抱かれたのだろうか。 抱かれた後に、自分の誘いを受けたのだろうか。 いや、そんな雰囲気はない。 だが明らかな紅い痕だ。 キスをわざとその場所にされたのかもしれない。 香穂子がもしもそれを許したのであれば、堪らなく嫌だ。 香穂子はあの男のことが愛しくてしょうがないのではないか。 そう思うだけで、吉羅は不快でしょうがなかった。 「楽しかったかね、今夜は」 ハンドルを強く握り締めながら、吉羅はわざとらしくクールに言う。 「とても楽しかったです。居酒屋のご飯も美味しかったですし、何よりもヴァイオリンのことで、色々と情報交換が出来たことが、とても嬉しかったです。なかなかお互いにヴァイオリンの話をするなんて機会はありませんから」 「それは良かったね…」 ふたりが楽しそうに話している姿を想像するだけでも、吉羅は嫌でしょうがない。 吉羅はステアリングを握る手が、いつしか嫉妬で震えているのを感じた。 嫉妬深いのは女の専売特許だと思っていた。 それがどうだろうか。 それ以上に嫉妬をしている男の自分がいる。 恋をしてしまうと、男のほうが嫉妬深いのではないかと思った。それも罪深いほどに。 香穂子に恋をする余りに、吉羅は冷静さを失っている自分に気付いていた。 香穂子をちらりと横目で見る。 恋をしているからだろうか。 いつも以上に美しい。 このまま何処かに連れ去ってしまいたくなる。 吉羅は愛故の衝動と嫉妬を押さえこむようにハンドルを握った。 「みなとみらいの夜景はやっぱり綺麗ですね。理事長の車から見ると、何だか格別美しいような気がするんですよね。本当にそれが不思議なんですけれど」 香穂子の何気ない言葉を、こころから嬉しいと思う自分がいる。 綺麗な表情をしている。 本当に美しいと思った。 「だったら夜景を楽しむためにみなとみらいをぐるりと一周してから帰るかね?」 「ホントですか! 物凄く嬉しいです」 香穂子の無邪気で明るい声が、邪な感情を消し去るように響く。 この声を聴いているだけで、吉羅は幸せをな気分になった。 車でみなとみらいを回っていると、香穂子は楽しそうにただ笑っている。 「夜景は中から見た方が、藪蚊とかに刺されないので快適ですね」 「外で夜景を見ていたんですが、蚊に噛まれてしまいました」 香穂子は苦笑いを浮かべると、うっすらと紅く着いた痕を指先で撫で付ける。 吉羅は信号待ちの時に、香穂子の首筋をちらりと見た。 紅い部分がぷっくりと腫れていて、明らかに虫さされであることが解った。 吉羅は嫉妬が少しだけだが、溶け出すような気がする。 だが、虫さされだけで済んだことにホッとした。 「この時期は夜景を見るのには少し向いていないのかもしれないね」 「そうですね」 香穂子は苦笑いを浮かべると、蚊に噛まれてしまった場所を、子どものように擦っていた。 「あまり触らないほうが良い。痕がついたら困るだろう?」 「そうですね」 香穂子が小さな子どものように笑って指先を引っ込めてしまう姿が、とても可愛いかった。 「では夜景をゆったりと見られるようにもっとゆっくりドライブをしようか?」 「有り難うございます」 香穂子は嬉しそうに車窓に夢中になっている。その姿が可愛いと思いながら、吉羅はどうしたら香穂子が喜んでくれるのか。 そればかりを考えていた。 「理事長、有り難うございます。夜景はやはり綺麗です。こうしてみなとみらいの風景を見ていると、未来空 間にすっぽりと入り込んでしまったみたいです」 香穂子の素直な喜びようや表現が、とても愛しく思う。 本当に綺麗なのは香穂子だという想いを飲み込んだ。 「…だけど、理事長の彼女さんには悪いかな…」 「え?」 「素敵なシートと夜景を独占したから…」 香穂子は申し訳なさげに言いながら、何処か切なそうに睫毛を伏せている。 その横顔が、誰よりも吉羅のこころを奪っていることを、きっと香穂子は知らないだろう。 「気にすることはないんだ。そのシートは君の優先座席だ」 吉羅はなるべくクールさを心掛けながら、香穂子をちらりと見つめる。 ほんのりと嬉しそうに笑ってくれたのが、何よりも嬉しかった。 香穂子を送らなければならないから、仕方がなくみなとみらいから離れる。 本当は離れたくはない。 だが、香穂子を離さないわけにはいかないから、学院近くの家まで送っていった。 「有り難うございました。とても美しい夜景を有り難うございます。堪能出来ました」 「…それは良かった」 吉羅はフッと甘い笑みを浮かべると、助手席のドアを静かに開けた。 不意に香穂子のバッグから、近場の軽井沢の旅行パンフレットがこぼれ落ちる。 吉羅が拾いあげると、香穂子は嬉しそうにそれを受け取った。 「…軽井沢に行きたいのかね?」 「仲間たちと行こうって言っているんですよ。それでパンフレット集め」 「そうかね…」 吉羅は胸にどす黒い感情が沸き立つの感じながら、香穂子にパンフレットを手渡した。 恋人と一緒に行くのだろうか。 |