4
体裁だとかそんなしがらみばかりを考えてばかりいたからだろうか。 香穂子は他の男のものになろうとしている。 そんなことは耐えられない。 手遅れなのだろうか。 何もかもが。 嫌そんなことはないはずだ。 吉羅は悶々と考えながら、香穂子の軽井沢行きを阻止することばかりを考え始めた。 香穂子が欲しい。 誰かのものになんて絶対にしたくはない。 香穂子を自分だけのものにして、ずっとその成長を見守っていたい。 吉羅は沸騰してたまらない恋心を抑える術は、もうないのだということを、今更ながらに気が付いた。 仕事の帰りに、吉羅は金澤を強引に誘い、バーでゆっくりと飲みかわす。 「…お前さんが、まさか恋の悩みに振り回されるなんて思いもよらなかったがな…」 金澤が面白がるように言うものだから、吉羅はほんの少しだけムッとしてしまった。 「…私だって、自分がこんな風になるとは思わなかったですよ…」 しかも一回り以上も年下の女性に。 今まで保護者のように見守ってきた女性に。 吉羅は溜め息と共に、ウィスキーを飲み干した。 金澤には、相手が日野香穂子だということは、伝えてはいない。 だが、薄々は気付いているだろう。 「…相手に彼氏がいるからといっても…、結婚しているわけでもガキがいるわけでもないんだから、奪えるだろう? お前なら」 金澤は遠い目をしながら、グラスの中の氷をからからと動かした。 「相手に全力でぶつかって、奪ってしまえば良い。相手の恋人よりも自分が優れて愛していることを表現すれば、相手も折れるさ」 金澤はウィスキーを飲みながら、静かに言う。 「…そうですね。やらないよりはやるほうが後悔は残りませんからね…」 「…そうだ…。今は俺もそう思えるようになった」 金澤の言葉に、吉羅もまたしみじみと頷く。 まるで恋に疎い高校生のような気分になる。 実際には、本物の恋には全く慣れていないと言っても良い。 そういうところは高校生以下だと吉羅は思っていた。 香穂子への恋情は紛れもなく本物だ。 吉羅はもうそれをごまかすことは出来ない。 今までのように逃げ出すことは許されない。いや、許したくはなかった。 吉羅はグラスのなかにあった酒を飲み干すと、フッと甘い気持ちになる。 初めて恋に対して真剣に向き合おうと思った。 月曜日は朝から大学での会議があり、吉羅はそちらへ出勤していた。 高校が発祥だから理事長室は高校にあるのだが、最近は大学の応接室で仕事をすることもある。 これも日野香穂子が大学に進学をしたからだ。 日野香穂子の様子をキャンパスで確認したくて、吉羅は顔を出すようになった。 手早く食事をするのに、カフェテリアもあり、しかも規模が大きい上に、バランスの良い料理を食べることも出来る。 会議の後、少し遅い昼食を取ろうとカフェテリアへと向かうと、香穂子が友人たちと話しているのが見えた。 「夏休みは彼氏の仲間と軽井沢? 良いなあ。何だか甘くて危険な響きがするよね!」 友人のひとりの言葉に、吉羅はドキリとする。 確かに香穂子の貞操の危機だ。 そんなことは許されない。 「…そんなことはないと思うんだけれど…」 香穂子は俯きながら呟いている。 すれていない純粋な香穂子だからこそ考え付くことなのかもしれない。 「まあ、香穂子が許せるかどうか考えてから返事をするんだよ」 「…うん。解った」 「じゃ、私たちは授業があるからね」 「うん、ばいばい」 香穂子は友人たちに手を振った後で、切なそうに溜め息を吐いた。 その横顔がまた愛らしい。 何かの踏ん切りがつかないようだった。 「日野君、どうしたのかね?」 「吉羅理事長…」 「向かいに座って構わないかね?」 「勿論です! どうぞお座り下さい」 「有り難う」 吉羅が腰を下ろすと、香穂子はにっこりと笑い、軽井沢旅行のパンフレットを片付けようとする。 「日野君、軽井沢に行く計画は上手くいっているのかな?」 「…なかなか上手くいかなくて…」 香穂子は苦笑いを浮かべると、パンフレットをバッグの中に片付けた。 「さてと! ご飯を食べなくちゃ! 美味しそうなご飯ですから」 香穂子は皿に視線を落とすと、箸を持って元気に食べ始める。 「…いつから行くのかね?」 「軽井沢は、八月に入って直ぐに行こうかと思っていたんですが…」 「八月の初めか。避暑をするには良いかもしれないね」 「そうですね。行けるかどうかは解らないですけれど」 香穂子はふと視線を暗くさせると、俯いてしまった。 「予算だとか問題があるのかね?」 「学生ばかりだから、予算は余りないのは当たり前なんですけれどね、行きたい場所だとか、後はホテルで揉めていて…。私はシングルかツインが良いと思っていたんですけれど、何かみんなはダブルルームだとかいって…。有り得ないです」 ダブルルーム。 それが意味することを吉羅が解らない筈はない。 吉羅は内心焦ってしょうがない。 香穂子を他の男に奪われてしまうのは嫌だ。 たとえ禁忌な関係であったとしても、体裁なんて壊してしまったほうが良い。 「乗り気でないなら、行かないほうが良いんじゃないのかな。ま、これは私個人の意見ではあるがね」 「…そうですよね…。それは友達も言っていました。だけど、みんなといると楽しいし、彼が傷付くのは嫌だから、こんなに悩んでしまうんですね…」 香穂子は再び溜め息を吐く。 本当に溜め息を吐く姿を見ているだけでも可愛い。 自分ならばこんな顔をさせやしないというのに。 「もう少し考えれば良い」 「そうですよね。ギリギリまで色々と考えてみます」 「そうだね」 香穂子は少しだけ癒されたからか、安心したように食事をする。 軽井沢になんて行かせない。 行くとしたら自分と一緒だと、吉羅は思う。 「…吉羅理事長、話を聞いて下さって有り難うございます。少しスッキリしました」 「ああ」 吉羅は、香穂子の言葉に頷きながら、絶対にこの腕に閉じ込めることを誓った。 それからは音楽の他愛ないことを話しながら、食事を楽しむ。 やはり、香穂子と一緒に食事をするのが格別に幸せだと思わずにはいられなかった。 お互いに食事を済ませた後、立ち上がる。 「日野君、今週金曜日の学院主催のパーティでの演奏だが、宜しく頼む」 今週の金曜日にで開かれる学院主催の懇親パーティで、香穂子にヴァイオリンのソロを頼んでいたのだ。 「はい、頑張りますから宜しくお願いしますね」 「ああ。楽しみにしているから、頑張ってくれたまえ」 「はい!」 香穂子の明るい言葉に吉羅はしっかりと頷く。 今や学院を代表するヴァイオリニストのひとりとして成長した香穂子に頼むのは、一番だと思ったのだ。 「では、練習に行きますね! 有り難うございました」 香穂子は吉羅に深々と礼をした後で、練習スタジオに向かって歩き出した。 吉羅は後ろ姿を見送った後で、ゆっくりと歩く。 金曜日のパーティが楽しみでしょうがなかった。 香穂子は吉羅と話が出来たことで、ほんの少しだけではあるがこころが軽くなった。 軽井沢には行きたいが、やはり行くのならば吉羅と行きたい。 付き合っている彼も良いひとだとは思うが、それ以上の感情は湧かない。 誰か他のひとと付き合えば忘れられると思ったのに、それがかえって逆効果であるこに気付いた。 吉羅の素晴らしさが際立った結果だったからだ。 |