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| 金曜日の夜、学院から程近いロマンティックな雰囲気のホテルで星奏学院の懇親パーティが開かれた。 香穂子は大学のヴァイオリン専攻の代表でソロパートを務めあげる。 一曲だけだが、それでもかなり緊張をしているのは確かだった。 香穂子は、薄紅色の少し大人びたドレスを着て、演奏をすることにしている。 いつもよりも化粧を丁寧にして、髪も大人びた形でアップをした。 彼よりも吉羅に見てもらいたいという気持ちのほうが強かった。 香穂子がスタンバイかたがた、ステージの横に立っていると、吉羅が姿を現す。 いつもは美しい女性と一緒にいる吉羅が、今日に限ってはひとりだった。 それが香穂子には何よりも嬉しかった。 今日は誰も同伴するつもりはなかった。 自分がホストを務めるパーティだから必要ない。 そして、香穂子に有らぬ誤解を抱いて欲しくはなかったからだ。 会場に入ると、直ぐに香穂子の姿を探すことが出来た。 今日はいつもよりもずっと洗練されたスタイルで来ている。 本当に綺麗だ。 見とれていると、香穂子がこちらの存在に気付いてくれる。 「日野君」 吉羅が声を掛けると、香穂子はにっこりと微笑んで頭を下げてくる。 この会場のなかで最も優雅な女性なのではないかと、吉羅は思わずにはいられない。 「調子はどうだね?」 「はい、今夜は一生懸命頑張ります。だけど、こんな場所でソリストとして参加するのは初めてだから、ちょっと緊張しています」 香穂子の“頑張ります”は世界一ではないかと思う。本当に可愛くてそして力強い。 香穂子の笑顔にひどく励まされるのは確かだ。 香穂子は微笑んでいるが、ほんの少しだけ緊張しているようだ。 僅かな震えを吉羅は感じる。 吉羅は香穂子の震えを抑えてやるために、頬にそっと手を宛てた。 香穂子は一瞬、まるで天国の花園にでもやってきたように、目を閉じた。 その表情がとても綺麗で、このまま奪い去りたいと思ってしまう。 香穂子が頬を紅に染め上げて、ほんのりと微笑んだ。 この笑顔が吉羅にどれ程の効果をあげているか、香穂子には解らないだろう。 香穂子の為ならば、なんだって出来る。そう思ってしまう。 「日野君、しっかりやりたまえ」 「…はい。有り難うございます」 吉羅は名残惜しげに手を離した。 そのタイミングで、香穂子の彼氏だと噂をされている男が、やってきた。 ふたりを見るなり、あからさまに不快な顔をし、嫉妬を滲ませている。 「香穂子ちゃん、調子はどうかな?」 「うん、何とか」 香穂子は吉羅からボーイフレンドに視線を移し、楽しそうに話している。 吉羅の内側から、どす黒い感情が湧き上がり、抑えることが出来ないほどに不快に熱くなる。 あの彼氏のことは笑えやしない。 それどころか誰よりも嫉妬しているのではないかと、吉羅は感じていた。 不意に、ふたりを邪魔するように、コンクール仲間が顔を出してきた。 仲間が増えたことでホッとしたような、何処か苛々するような複雑な感情に捕らえられた。 本当にどうしようもないほどに香穂子に恋をしているのだと、吉羅は自覚をするしかなかった。 吉羅が離れてしまい、彼やコンクール仲間と話しながらも、香穂子の意識は常に吉羅を追いかけていた。 頬に手を宛てられた時、美しい楽園に誘われたと思うほどに、快適で素晴らしいと感じた。 あんなにも心地が好い瞬間はないのではないかと思う。 香穂子は、頬に感じた優しい手のひらの温もりを思い出しながら、最高の演奏が出来るのではないかと感じていた。 香穂子がいよいよステージに立つ。 これだけは見逃すことは出来ない。 聞き逃すことも出来ない。 吉羅が見守るようにステージを見つめていると、顔見知りの女性が横にきた。 美しく聡明だが、何処か計算高さも感じられる女性。 それゆえに吉羅は深入りしないと決めていた。 「吉羅さん、こんばんは。あなたの大切な秘蔵っ子さんがヴァイオリンをソロで弾くのね。まるで兄か父親のような心境じゃなくって?」 吉羅は答えない。 父親や兄のような穏やかな感情は、香穂子に対してはない。もっと大きくて激しい感情だ。 これ以上ないと思えるほどの激しくて熱い感情と言っても良かった。 吉羅にとって、今までで最も激しくも熱い想いには違いなかったから。 「…始まるわ…」 香穂子は小さなステージに立つと、真っ直ぐ吉羅を見つめてきた。 ほんの一瞬ではあるが、泣きそうな顔をする。 それが吉羅には切なくて辛かった。 香穂子は静かにヴァイオリンを構えると、“ニューシネマパラダイス”の美しい旋律を奏で始めた。 いつもよりも温かくて美しい音色に、吉羅のこころは柔らかくなっていた。 ステージに上がり、まるで癖のように吉羅を探す。 吉羅の姿を直ぐに見つけられたものの、隣にはやはりとても美しい女性がいた。 胸が張り裂けそうに痛くなる。 やはり吉羅が好きだ。 好きで好きでしょうがない。 こんなにも泣きそうな感情は、他にないのではないかと思う。 香穂子は恋情を振り切るようにヴァイオリンを構えると、“ニューシネマパラダイス”を奏で始めた。 先ほどの吉羅の温かな手を思い出しながら。 演奏が終わり、誰もが香穂子を称賛している。 吉羅は誇らしく思うのと同時に、何処か寂しさもきんじえなかった。 ステージを下りた香穂子を、仲間たちが迎えている。 その中には、香穂子が付き合っている彼もいる。 彼氏の特権なのか、誰よりも早くに香穂子と話していた。 本当はその役目を自分でしたかった。 香穂子に一番に称賛を送ってやりたかった。 だが、今はそれが出来ない。 その切なくも重い感情に、吉羅は息が詰まりそうだ。 何時から自分は、こんなにも嫉妬深くなってしまったのだろうか。 何時から自分は、こんなにも臆病になってしまったのだろうか。 そんなことを考えてしまう。 「吉羅さん、お話に行きませんか? ゆっくりと」 女に話しかけられて、吉羅は香穂子を見る。 これでは話しかけるには時間がかかるだろう。 吉羅の視線に気付いたのか、香穂子が潤んだ瞳でこちらを見つめてくる。 応えるように頷いてやると、香穂子は泣きそうな笑顔で頷いた。 再び香穂子は友人たちに神経を向ける。 「…そうだね。少しだけ話そう」 吉羅は諦めるように言うと、女とステージから遠ざかった。 ステージを下りて、すぐ吉羅を探す。だが視線を合わせることが出来ない。 タイミングが悪く、友人たちに取り囲まれてしまい、香穂子は吉羅を探すのを止めた。 吉羅が先ほどの演奏をどう感じてくれていたかが、気になってしょうがない。 香穂子は吉羅と話をする機会を伺っていた。 一瞬、吉羅と目が合う。 笑ってくれて頷いてくれる。 それだけでも嬉しくて、香穂子も同じように微笑んで頷いた。 だが吉羅は女と一緒にいってしまう。 息が出来ないほどに苦しくて切なかった。 結局、パーティが終わるまで、吉羅とは話が出来なかった。 香穂子は一緒にいてくれた彼には悪いと思いながら、送ってくれるという申し出を断った。 今はひとりになりたい。 香穂子の願いはそれだけだった。 ひとりでロビーを歩いていると、吉羅が近寄ってくる。 近寄られるだけで幸せな気分になるのは、かなりの重症だ。 「日野君、送ろうか。君に少し話したいことがある」 吉羅の言葉に香穂子は息を呑んだ。 |