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みなとみらいの高級外資系ホテルの前で、吉羅が着物姿の美しい女性をエスコートしているのが見えた。 女性の年格好から、香穂子よりもほんの少しだけ年上に見える。 雰囲気からすると、恐らく見合いなのだろう。 香穂子は気が気でなくて、吉羅と女性をじっと観察していた。 女性のほうは、すっかり吉羅に夢中になっている様子で、うっとりとしている。 吉羅はと言えば、いつも通りのクールな顔で、特に女性に興味があるようには見えなかった。 それが救いと言えば救いなのだが。 だが見合いをするということは、逆を正せば、周りには意中の女性などいないということなのだろう。 香穂子は意中ではないことを、さり気なく意味しているのだ。 香穂子は溜め息を吐くと、吉羅に見つからないようにそっと隠れる。 見られても何ということはないけれども、それでも見られると気まずい気分になる。 「香穂子、行くわよ」 「うん、お姉ちゃん」 香穂子は姉の後ろ姿を追い掛けていく。 後髪を引かれる気分になりながら、吉羅のいる方向に振り返ると、そこにはもういなかった。 吉羅とお見合いをしていた女性は、本当に綺麗で、似合いだと香穂子は思わずにはいられない。 それに比べて今の自分が余りに釣り合いの取れない相手だと思ってしまう。 吉羅はいつ誰かと結婚してもおかしくはない。 そう思うと、暗い闇に飲み込まれていくような気がした。 香穂子がキャンパスを歩いていると、吉羅の姿を見掛けた。 声を掛けようとも思ったが、吉羅が急いでいるように見えたので、香穂子は声を掛けずにいた。 こちらが声を掛けずにいると、吉羅が声を掛けてきた。 「日野君」 「吉羅理事長」 香穂子が立ち止まると、吉羅は直ぐに追いついてきた。 「こんにちは理事長。何かご用ですか?」 にっこりと微笑むと、吉羅は薄く笑う。 「来週の日曜日なんだが、朝から空けることは出来るかね?」 「練習をする以外は何の予定もないですから、大丈夫ですよ」 「だったら私に少し付き合ってくれないかね」 「はい」 わざわざ呼び出して吉羅が言うのは珍しいと思いながら、香穂子は頷いた。 「有り難う。ラフな格好で構わないから、この時間にここに来て欲しい」 吉羅に差し出されたカードを見るなり、香穂子は小首を傾げた。 「…ホテルの美容室?」 「そうだ。そこに朝8時半。時間厳守で頼む」 「あ、はい。分かりました」 美容室に呼び出すなんて、どういう用件だろうか。 香穂子はじっとカードを見つめながら、小首を傾げた。 当日、吉羅に言われた通りに、香穂子はみなとみらいの外資系ホテルに向かった。 美容室の前に来ると、吉羅が待っていた。 「日野君、朝から申し訳がないね。なかに入って渡したカードをスタッフに出してくれたまえ」 「はい」 香穂子はどうして美容室に行かなければならないのかと腑に落ちないままで、なかに入っていった。 香穂子が美容室に入るなり待構えていたスタッフに、椅子に座るように勧められたかと思うと、髪をいきなり結い上げられる。 「あ、あのっ!」 「日本髪とまではいかないですが、お似合いになるように可愛いくアップにしますね」 「あ、は、はい」 髪を和装ようにアップにしてどうするのだというのだろうか。 香穂子はドキドキしながら、鏡の向こうで変わっていく自分の姿を見つめた。 アップをされたかと思うと、今度は和装に似合うメイクを程こされる。 和装なんていつもしないから慣れていない。 メイクが終わると、和室に連れていかれる。 振り袖が飾ってあり、香穂子はその美しさにうっとりとした。 「ではこちらに着替えて頂きますからね。お洋服を脱いで下さい。こちらを着付けます」 「あ、有り難うございます」 香穂子はこれから何が起こるのだろうかと、ドキドキしながら、振り袖を着付けられる。 香穂子を着付けて一体何になるのだろうか。 香穂子は落ち着かない気分になりながら、和装へと変化を遂げた。 「はい。出来ました。お綺麗ですよ」 「…あ、有り難うございます」 香穂子は鏡を見せられて、自分の姿を確認する。 和装は慣れてはいないが、プロの手に掛かると、それなりになるのだと、香穂子は思った。 「これでおしまいです。さあ、お待ちですよ」 香穂子が美容室から出ると、吉羅が待構えていた。 艶のある瞳を愛撫するように向けられて、香穂子の喉がからからになった。 「まあまあ…、ではないかね。やはり日本女性は和装が似合うね」 香穂子は耳の下が痛くなるほどにドキドキするのを感じながら、吉羅を見上げた。 「吉羅さん、あの、どうして和装をしなければならないんですか…?」 「ちょっと君には協力を仰ぎたいんだ」 吉羅は低くよく通る声で言うと、静かな瞳で香穂子を見つめた。 「協力…ですか?」 「私の知り合いのなかで、君がベストだと思うからね」 「…はあ…」 香穂子が訳が分からずに不安そうに吉羅を見つめると、フッと微笑まれる。 「…日野君、君には私の婚約者のふりをして貰いたいんだよ」 吉羅の言葉に、香穂子は一瞬、惚けたような顔をする。 「あ、あの、吉羅さん、そ、その、あの」 言葉が詰まり、何を言って良いのかが分からなくなる。 吉羅の婚約者のふりをするなんて大それたことが出来るのだろうか。 香穂子は呼吸がおかしくなるのを感じながら、吉羅を見上げた。 「…そんな大切なことを私に頼んでも、構わないのですか…?」 「私は君でないと駄目だと思っているがね」 香穂子を見つめる瞳が柔らかく蕩けて華やいだ。 「…私でないと…?」 「まあその意味は君が考えることだね」 吉羅はさらりと言うと、香穂子の手を握り締めてきた。 大きくてこころまでも包み込んでくれそうな手に、香穂子は甘い旋律を呼吸する。 「婚約者なら、手を繋ぐのは当然ではないかね?」 「そ、それはそうですよね」 香穂子は手を震わせながら、吉羅を見上げる。 「…緊張している?」 「少しだけ」 「嫌かな?」 「嫌じゃないです…」 「そうか…」 吉羅の手が更に強く握り締められる。 安心すると同時に、こんなにも緊張するのだろうか。 大きくて温かな手は、香穂子の総てを守ってくれるような気がした。 吉羅に連れられて、港が見える開放的なロビーに連れていかれる。 「日野君、これから私は君のことを“香穂子”と呼ぶからそのつもりで。君も私のことは“暁彦”と呼んでくれたまえ。“理事長”は禁物だからね」 「…はい」 吉羅を名前で呼ぶなんて慣れていないから緊張してしまう。 「あ、あの。や、やっぱり“吉羅さん”では駄目ですか…?」 「…どうしても駄目だというなら致し方がないとは思うが…、何だか名字で呼んだら不自然だとは思わないかね? 婚約者なのにね」 「…そ、それはそうなんですけれど…」 香穂子がごにょごにょと言うと、吉羅はフッと微笑んだ。 「財界のお偉方なんだけれど、私に見合いばかりを勧めてくるひとでね。最初は仕方がなく見合いをしていたのだが…、見合いなんて煩わしくてね。だから結婚を考えている相手がいると言ったら、いきなり連れてこいと言われてしまって、それで困り果てて、君に頼んだというわけだよ。申し訳ないが、私に少しだけ付き合ってくれないか? 君しか思いつかなかったから、申し訳ないけれどね」 「はい」 香穂子は胸を張ってロビーを歩く。 すると美しい振り袖姿の女性と、初老の品のある夫婦が立ち上がった。 |