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着物姿で吉羅に手を引かれる。 これ以上にロマンティックなシチュエーションなんてない。 香穂子は、鼓動を甘く高まらせながら、横を歩く吉羅をちらりと見つめた。 本当にこちらがうっとりと酔い痴れてしまいそうなぐらいに吉羅は素敵だ。 いつも素敵だと思ってはいるが、今日は格別だと香穂子は思った。 頬を紅く染め上げてうっとりと吉羅を見上げていると、不意に吉羅のいつもよりも優しいまなざしとぶつかった。 「日野君、今日は本当に済まなかったね。あのひとの考えていることは解っていたから、こうして婚約者がいると宣言しなければ、何時までも、私に結婚を勧めるのは止めないような気がしてね…。やはり今日も見合いと同じような席をセッティングしていたから、やっぱりだと思ったよ」 吉羅はやれやれと溜め息を吐きながら、香穂子の手をギュッと握り締めた。 「お役に立てて、嬉しいです」 香穂子が微笑むと、吉羅もフッと笑って頷く。 「君が今日は和服だから、懐石が似合うかもしれないね。決まりだ。ランチは懐石料理で構わないね?」 「は、はいっ! 有り難うございます」 「じゃあ行こうか」 吉羅は香穂子の手をしっかりと握り締めたままで、駐車場へと連れて行ってくれた。 いつもよりも足元がおぼつかないからか、吉羅はゆっくりとエスコートをしてくれる。 吉羅に車に乗るサポートまでして貰った。 車を走らせて、吉羅は横浜をドライブする。 香穂子がドライブが好きなのを知っているからだ。 「有り難うございます。吉羅さんとドライブするのが大好きなんです」 香穂子が無邪気に笑うと、吉羅もまた笑みを零した。 いつもはクールで誰よりも冷たいから、こうして温かな笑みを見せてくれるのが嬉しかった。 「君は良い顔をしているね?」 「だって楽しいから…」 香穂子がはにかみながら言うと、吉羅はそっと手を握り締めてきた。 甘くてドキドキする触れ合いに、香穂子はくらくらしてしまう。 こんなにも甘くて心地が良い温もりが他にない。 香穂子はドキドキと心臓の鼓動を激しくさせながら、吉羅の手をギュッと握り締めた。 吉羅と一緒に懐石料理を食べさせてくれる、落ち着いた日本料理店に入る。 ふたりきりで和室に入ると、落ち着かないほどに緊張した。 「ここの和食はかなり美味しいから期待していると良いよ」 「はい」 「緊張しているみたいだが、いつも通りにしていれば良い。上手くハンカチとかを使えば、振り袖もそんなには汚れないだろうからね」 「はい」 吉羅がいつもよりも魅力的だから緊張しているなんて、言える筈がない。 香穂子は吉羅を見つめる。 本当になんて素敵なのだろうかと思う。 じっと見つめる。 香穂子のまなざしに気付いたのか、吉羅が見つめ返して来た。 「日野君、女性の振り袖姿というのは良いものだね」 「あ、有り難うございます」 ストレートに吉羅に言われると、恥かしくて堪らなくなる。 頬を赤らめて俯きながら、香穂子は吉羅を見た。 「あ、あの…。今日の女性、とても綺麗でした。良かったんですか?話もせずに、お付き合いもせずに、断るのは…」 香穂子がたどたどしく言うと、吉羅は僅かに眉を上げた。 「良いんだ。彼女がどんなに美しくても、どんなに聡明であったとしても、私は断ったよ」 「どうして…?」 「理由は秘密だ。君もいずれは分かるようになるよ」 吉羅の言葉に、香穂子はドキリとした。何か重要な甘い事実が隠されているような気がする。 「食事が運ばれてきた。食べようか」 「は、はい」 吉羅にどうしてなのかとそれ以上訊くことが出来なくて、香穂子は食事をすることにした。 「君は振り袖がよく似合うが…、余り長い時間、着ることがないだろうね」 「え…?」 余り長い時間着られないということは、それだけ未婚の時間が短くなるということなのだ。 ドキドキする。 その先にある薔薇色に輝く未来が見え隠れするような気がして、香穂子は鼓動がおかしくなるのを感じた。 懐石料理が出され始めて、香穂子は振り袖を汚さないように、慎重に食べる。 「美味しいです。いつも有り難うございます」 香穂子がニッコリと笑うと、吉羅も落ち着いた笑みをくれる。 「君と食事をするのは、何だか楽しいね。見ているだけで面白いというのはあるかもしれないがね」 吉羅がフッと笑うのを見て、香穂子は恥ずかしくなってしまう。 「日野君も来年は二十歳になるんだね。早いものだ」 吉羅にしみじみと言われてしまい、香穂子もふたりが出会ってもう二年以上も経過したのだと感じ驚く。 「今年は、日本音楽コンクールにまで優勝して、どんどんヴァイオリニストとして有名になって行くね。とても良いことだ。学院としても、君の活躍を期待しているからね」 「有り難うございます。もうすぐウィーンのコンクールもありますから、気を引き締めなければなりませんね」 「そうだね」 吉羅のまなざしを見ていると、少しだけ期待したくなる。 コンクールにも優勝して、少しずつ“有名ヴァイオリニスト”に近付いてきた。 だからそろそろふたりの付き合いを変えてはくれないのだろうか。 吉羅と男と女として付き合うことが出来ないのだろうか。 ずっと一途に好きで居続けてきた。 だからこそ、そろそろ新しい関係が欲しい。 「吉羅理事長…、ヴァイオリン、もっと頑張りますね。だから…」 言葉にすることは出来ないけれども、吉羅にまなざしで訴える。 そろそろ女として見て貰えないだろうか、と。 だが、見合いを重ねる吉羅には、きっと女として見られていないのは、明白だ。 香穂子が重たい気分を抱えていると、不意に吉羅がこちらに視線を向けてきた。 沈黙を破るかのように唇を開く。 「日野君、君が私の婚約者だってことは、明日には財界に知れ渡っているだろうね」 「え…!?」 吉羅は色香のある笑みを唇に浮かべると、香穂子の頬を撫でてきた。 「…これで私は見合い攻勢から逃れられ、しかもこの噂によって君にちょっかいを掛ける男は少なくなる。一石二鳥だとは思わないかね…?」 「思いま…あっ…!」 香穂子は耳朶まで赤くしながら、吉羅を見つめる。 「そ、それってその…あの…」 ドキマギしながら、香穂子は躰を震わせる。言葉通りの意味であるならば、これ以上に嬉しいことはないのにと、香穂子は思った。 「…それは、言葉通りに取っても良いですか…?」 「言葉通りに取らなくてどうするのかね」 吉羅はフッと微笑むと、香穂子の頬のラインを官能的に撫で付けてくる。 気持ちが良くて、香穂子は思わず目を閉じた。 「…これで私たちは、男と女の付き合いを堂々と出来るということだよ?」 「…あ…」 「付き合いたいかね? それとも…」 「つ、付き合いたいです…」 香穂子が慌てて返事をすると、吉羅は唇を僅かに上げて頷いた。 「噂が真実になるのはよくあることだからね?」 吉羅はゆっくりと唇を近付けてくると、香穂子の唇を甘く奪い去った。 ずっと夢見ていた吉羅とのキス。 キスが現実になって、香穂子は甘さの余りにとろとろに蕩けてしまいそうになった。 キスが終わると、吉羅は香穂子を抱き寄せる。 「今日はどうしても君の振り袖姿を見たかったんだよ…。余り長く着せてはあげられないからね?」 「夕方までで充分ですよ?」 香穂子の言葉に、吉羅は喉を鳴らしてくつくつと笑う。何がおかしいのだろうかと、香穂子は焦らずにはいられなかった。 「き、吉羅さん?」 「…私が言った意味は、来年の今頃には分かるよ?」 「は、はあ…」 涙目で笑う吉羅を見つめながら、香穂子はきょとんとした。 一年後、吉羅のプロポーズを受けて、香穂子はようやくその意味を知ることとなった。 |