*恋情の罠*


 吉羅は夢を見た。
 久し振りの夢は鮮やかな総天然色で、まるで現実ではないかと疑ってしまう。
 だが現実とは違うところは、本当に陽の光が眩しくて美しくて、目をすがめてしまうことだ。
 まるで照明に当てられたのではないかと思ってしまう。
「…綺麗だな…」
 ただ温かな光に導かれながら吉羅は歩いていく。
 すると本当に美しくて、感動するほどの瑞々しい光に包まれる。
 美しい教会が見えて、そこには綺麗過ぎる純白に包まれたようなドレス姿の女性がいた。
 紅い艶のある髪。
 その美しさに、吉羅は目を奪われる。
 振り返った女性は、日野香穂子だった。
 清冽な笑みを浮かべると、香穂子は吉羅ではなく別の男の腕を取って教会に入っていく。
「日野君!」
 吉羅が名前を呼ぶと、香穂子は吉羅に顔を向けた。
「…もう、あなたを追いかけるのは疲れたんです…。私は私だけを真直ぐと愛してくれる男性を選びます…」
 泣きそうな顔で微笑むような香穂子が、不意に大人の女性の表情になる。
 そのまま息を呑むかと思うほどに美しく輝き、男と共に泡沫に消えてしまった。
「香穂子…!!!」
 吉羅が悲痛な想いを滲ませてその名前を叫んでも、もう届かない。
 香穂子は吉羅を残して、綺麗に消え去ってしまった。

 背中に嫌な汗をびっしょりとかいて、吉羅は目覚めた。
 息が乱れる。
 久し振りに見た夢が、こんなにも辛いものだなんて思いもよらなかった。
 吉羅は髪をかき上げると、溜め息を深く吐いた。
「…参ったな…」
 吉羅は額に乱れた髪を追い払うと、ベッドから起き上がる。
 恐れが形になった夢だった。
 愛していながら、ずっと距離を置いていた相手。
 その相手がいなくなってしまうなんて、考えられないことだった。
 だが、香穂子がいつかいなくなってしまうことを、こころの何処かで恐れている自分がいるのは確かだ。
 吉羅は、ショックから覚めやらない頭をスッキリとさせるために、シャワーを浴びることにした。
 シャワーを浴びている間に、吉羅は自分自身に言い聞かせる。
 あれは夢だ。
 あくまでも夢なのだ。
 そんなに心配をすることではない。
 吉羅はシャワーを浴び終わった後、いつものように茶粥を作り、野菜などをつけて健康的な朝食を取る。
 こうして日常のことをしていれば、そのうち夢のことなんて忘れてしまうだろう。
 吉羅はそう思いながら、食事をいつものペースで平らげた。

 いつものようにフェラーリに乗り、横浜の星奏学院まで出勤をする。
 カーラジオからは、珍しく“ジュ・トゥ・ヴ”が流れてきた。
 亡き姉が最も得意とした曲。
 そして吉羅が最も愛する女性が得意とする曲でもある。
 どうしてこうタイミングが悪くこの曲が流れるのだろうかと思う。
 今朝の夢など忘れてしまいたかったのに。
 吉羅は溜め息を吐くと、今朝の夢を振り切るかのようにハンドルを握り締めた。

 午前中の仕事はスムーズにいった。
 特に滞ることもなく、快適な時間だった。
 午後からは大学で会議があるために出向く。
 香穂子に逢えるかもしれない。
 それを思うと、吉羅は華やいだ気分になった。

 昼食は、大学部のカフェテリアで食べることにする。
 香穂子に逢えると良いのにと、思わずにはいられない。
 カフェテリアに入ると、吉羅は無意識に香穂子の姿を探した。
 だが、見つからない。
 まるで中学生のような行動と思考に、吉羅は苦笑いを浮かべた。
 どこまでも純粋に香穂子のことを愛してしまっているようだ。
 食事の注文列に並んでいると、不意にカフェテリアが華やいだ雰囲気になった。
「あ、日野さん。この間、ローザンヌのコンクールで第1位になったのよね。凄いよね。短期間でよくあれほどまでに伸びたよね。理事長や高等部の金澤先生は余程見る目があるのかなあ」
「そうじゃない? しかも日野さん美人だから、マスコミの注目も凄いよね」
「そうだよね。経済学部の私たちまでよく注目しているんだもの」
 生徒たちの会話に耳を傾けながら、吉羅は誇らしさと共に何処か寂しさも感じてしまう。
 これが吉羅の望んでいたことのはずだ。
 だが、いざそれが叶ってしまうと、寂しくて寂しくてしょうがなかった。
 吉羅は、いつものようにヘルシーランチを頼む。
 すると会話をしていた生徒たちも、吉羅の存在に気付いたようだ。
「…理事長だ。相変わらずセレブだよね」
 そんな会話を聴いた後でテーブルに着くと、香穂子がカフェテリアでランチを注目しているところだった。
 誰もが明らかに憧れのまなざしで香穂子を見ている。
 マスコミでも“美人ヴァイオリニスト”として、非常に話題になっている。
 あの美しさを見ていると、こころが和む。
 本当に本当に綺麗になったと、思わずにはいられなかった。
 香穂子は同じ音楽学部の生徒たちと話をしている。
 同じ世代の男性と話している香穂子を見ていると、誰よりも輝く笑顔を醸し出している。
 嫉妬すら覚えていた。
「理事長、こんにちは!」
 不意に元気な声が響き渡り、吉羅は思わず微笑んでしまう。
「日野君か…。こんにちは」
「ご一緒して構いませんか?」
「ああ」
 吉羅が素っ気無く答えたというのに、香穂子は本当に嬉しそうな微笑みを浮かべた。
「有り難うございます」
 香穂子は笑顔で吉羅の前の席に腰掛ける。
 笑顔でいると高校生の頃と少しも構わないのではないかと思う。
 あどけなさがとても魅力的だ。
 だが本当に美しくなった。
 日に日に見違えるように美しくなっている。
 香穂子は吉羅と同じヘルシーランチを頬張っていた。
「最近は忙しそうだね」
「お陰様で。ですが今週からは落ち着きますから、また次に向かって頑張らなければなりません」
 香穂子は輝くような笑顔を吉羅に向けて、それはとても楽しそうに話をする。その表情もとても魅力的だ。
「理事長、音楽連盟と財界が主催するチャリティーイベントに参加されるんですよね」
「ああ」
「私も参加してヴァイオリンを演奏します」
「楽しみにしているよ」
 吉羅が静かな口調で言うと、香穂子は本当に嬉しそうに笑ってくれる。
「頑張りますね」
「ああ。たまには高等部にも遊びにきたまえ。リリやファータどもが寂しがっている」
「忙しくて顔を出せなかったので、近いうちに顔を出しに行きますね」
 香穂子は笑顔で請け合ってくれる。
 本当は自分が逢いたくて逢いたくてしょうがないのに、ついリリをだしに使ってしまう。
 理事長としての倫理を隠れ蓑にした、ただの臆病者なのではないかと思わずにはいられない。
「理事長は会議ですか?」
「ああ。大学部も色々と問題が山積でね」
「私は“頑張って下さい”としか言えなくて悔しいですが、お仕事、頑張って下さいね」
 香穂子が笑顔で言ってくれるのが、何よりも頑張ることが出来るスパイスになる。
「有り難う。また、ヴァイオリンを理事長室に弾きに来てくれたまえ」
「はい。喜んで」
 香穂子の笑顔を見ているだけで、幸せな気分になる。
 吉羅はフッと微笑むと、香穂子を甘いまなざしで見つめた。
 時計を見る。
 残念なことにタイムリミットだ。
「そろそろ、私は行かなければならない。君はゆっくりランチを食べていたまえ」
 吉羅が立ち上がると、香穂子は頷く。
「はい。解りました」
 吉羅が歩き出すと、香穂子が見送ってくれるのが解る。
 こんなに心地好い見送りはなかった。



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