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財界主催の音楽関係のパーティには、毎回、有望な新人アーティストたちが招かれる。 今年は香穂子も呼ばれ、吉羅は誇らしく思う。 吉羅が会場に到着をすると、香穂子がステージの袖で、スタッフと打ち合わせをしているのが見えた。 深紅のドレスが白い肌に映えて本当に綺麗だ。 ここまで綺麗なヴァイオリニストは、いや…女性はいないのではないかと吉羅は思った。 髪をシンプルなシニヨンに結い上げて、うっすらと化粧をしている香穂子は、世界で一番美しいのではないかと吉羅は思った。 ずっと見つめていたい。 そう思ってしまうほどに綺麗な女性だ。 香穂子を熱いまなざしで見つめていると、吉羅に気付いたようだった。 ちょうど打ち合わせが終わったようで、笑顔でこちらにやってきた。 「吉羅理事長!」 明るいよく通る高い声で名前を呼ばれると、本当にこころが温かくなる。 吉羅が笑みを浮かべて待っていると、香穂子は子犬のような可愛らしさでやってきた。 「こんばんは。ここで理事長にお会い出来て嬉しいです」 香穂子の表情に、吉羅はつい甘い瞳をしてしまう。 「日野君、今日の演奏をしっかりと頑張りたまえ」 「はい。頑張りますね。理事長が見て下さっていますから、何とか頑張れそうです」 「君の演奏を楽しみにしているよ。一生懸命、励みたまえ」 「はい、有り難うございます」 香穂子の笑顔を見ていると、吉羅はこのまま抱き締めてしまいたくなる。 こんなにも愛しいと思う相手は、生まれて初めてなのだ。 「理事長、私、しっかり頑張りますから、見ていてくださいね。理事長が言うところの、“有名ヴァイオリニスト”にどれぐらい近付いたかを教えて下さいね」 「ああ。解った」 香穂子は時計を見て慌ててお辞儀をする。 「そろそろ時間です。理事長のために、こちらにいらっしゃるお客様のために、しっかりと頑張ってきますね」 「ああ。しっかりやってきなさい。星奏学院の代表としてね」 「はい」 香穂子は華麗にドレスを捌きながら、ステージへと向かう。 いつの間にかドレス裁きも、ハイヒールの履きこなしも、堂々と出来るようになっていた。 初めての国際コンクール出場のために、香穂子には外国人のマナー講師をつけて、優雅な振る舞いを徹底させた。 最初はあんなにもおぼつかなかったのに、今やかなり堂々としている。 これには吉羅も目を見張った。 ヴァイオリンにしても、華麗な貴婦人の振る舞いにしても、香穂子が何でも良いものを素直に吸収出来る素質がそうさせたのだろう。 本当にいつの間にか身に着けていた。 間も無く、香穂子は押しも押されぬ若手ヴァイオリニストになるだろう。 それは容易に解る。 後少しで香穂子は“有名ヴァイオリニスト”になるだろう。 吉羅の理想のヴァイオリニストになるのだ。 みんなが愛するヴァイオリニストになるのだ。 嬉しいが、香穂子が独り占め出来なくなるのが辛くてしょうがなかった。 吉羅がステージを見つめていると、香穂子が上がる。 ステージ上の香穂子は、大学生のあどけなさがなくなり、とても妖艶な美しさを醸し出していた。 綺麗だ。 吉羅は、まるで恋を知ったばかりの少年のように、香穂子を真直ぐ見つめる。 香穂子はきらきらと輝く月よりも太陽よりも美しい。 こころから思えた。 ヴァイオリンの音色もまた美しかった。 温かいのに透明感がある、安らぎと温もりを与える不思議な音色だ。 この音色に惹かれたからこそ、香穂子を今まで支援して来た。 だがそれよりも、今は香穂子のひととなりに惚れている。 ヴァイオリンを奏で終わった後、会場では派手な拍手が湧き上がっていた。 誰もが香穂子の音色に魅了されたことが、拍手を聴くだけで解る。 吉羅は嬉しいのに、何故だかこのまま誰にも触れさせたくないような複雑な気持ちになっていた。 「理事長!」 演奏が終わると、香穂子はいち早く吉羅に近付いてきた。 いつものように、演奏がどうだったのかと訊く子供のような子供なのだ。 「聴いて下さって有り難うございます」 「…なかなかだったよ」 「有り難うございます」 吉羅の言葉に香穂子はホッとするように笑うと、じっと見つめてきた。 「理事長がいたから安心して頑張ることが出来ました。有り難うございます」 「君の実力だから。これからもしっかりとした演奏を期待しているよ」 「理事長のご期待頂けるように頑張ります」 香穂子が笑顔で話していると、こちらに財界の有力者がやってきた。 息子と一緒だ。 「吉羅君、日野さんは君の秘蔵っ子らしいね。良い演奏を聞かせて貰いました」 男性は頷くと、息子は笑顔を香穂子に向ける。 「あなたの演奏を聴いて癒されました」 息子は香穂子よりもほんの少しだけ年上のようで、大学を出たばかりといったところだった。 「有り難うごさいます。とても嬉しいです。聴いて下さいまして有り難うごさいます」 香穂子はかなり嬉しかったからか、笑顔でふたりを見つめている。 いつもの笑顔。 だがそれが吉羅には切ない気分を抱かせた。 香穂子の笑顔を独占したいだなんて、そんなことを思ってしまう。 「君はローザンヌのコンクールで優勝されたと聞きました。それだけはあると演奏を聴いて思いましたよ。CDなどで音を残してずっと聴いていたい気分でしたよ」 「有り難うございます。とても嬉しいです。いつかCDを出すのも夢ですから、それを叶えられるように頑張りますね」 香穂子が笑顔で答えると、息子もまた笑顔になっている。 ふたりが見つめ合うのが、吉羅には気に入らなかった。 香穂子が見つめるのは自分だけだと、そのような狡猾なことを考えてしまう。 「また、お会いしたいです。コンサートの予定などがありましたらお知らせ下さい」 青年は純粋な笑顔を向け、香穂子に連絡先を書いたカードを手渡す。 「有り難うございます。是非とも連絡をさせて頂きますね」 「はい」 ふたりが笑顔で話しているのを、吉羅はムシャクシャした気分で見つめてしまう。 「では、私たちはこれで」 「はい。有り難うございます」 香穂子が笑顔でふたりに挨拶をするなかで、吉羅は究極に苛々するのを感じていた。 「吉羅理事長、おふたりともとても良い方ですね」 「…そうだね」 硬い声で言いながら、香穂子を見る。 どうか。 誰のものにもならないで欲しい。 「日野君、君はまだまだ頑張らなければならない。恋などにかまけるよりは練習が必要だ。少しぐらい褒められたぐらいではダメだ」 香穂子を失いたくない余りに、つい戒めるようなことを言ってしまう。 なんて子ども染みているのだろうかと、思わずにはいられない。 「…解っています…」 香穂子は唇を噛み締めると、俯いてしまう。 しゅんとしたその表情が可愛いそうになり、吉羅は自分自身が痛くなる。 つい厳しいことを言ってしまうのは、香穂子への愛情の裏返しなのだ。 「…吉羅君じゃないか!」 不意に声を掛けられて吉羅が振り返ると、そこには財界一の実力者で、吉羅が尊敬している男がいた。 「少し良いかね」 「はい」 見ると男性の横には、彼の美しい娘がいる。年の頃は吉羅と同じぐらいだ。 「…吉羅さん…お久し振りです」 「少し構わないかね?」 男性の申し出に吉羅は頷くと、香穂子を見る。 「日野君も一緒に来なさい」 「はい…」 少し元気のない香穂子を連れていく。 目を離したくはなかった。 |