*恋情の罠*


 パーティの帰り、吉羅は香穂子を送っていく。
 こころなしかいつもよりも元気がなかった。
「…まだまだ…ですから、私も頑張らなければなりませんね。様々な方の演奏をお聴きして、私はまだまだ 頑張らなければ足元に及ばないことが解りました。ヴァイオリンだけに集中します」 
 香穂子はしょんぼりとした子犬のような表情をしながら、わざと笑おうとする。
 その姿が痛々しくてしょうがなかった。
「…以前に比べると上達している」
「…大人の女性にはなれていますか?」
 今にも泣きそうな思い詰めた表情をすると、香穂子は吉羅を真直ぐ見つめた。
 潤んだ瞳を見れば解る。
 もう子どもではない。
 美しいひとりの大人の女性だ。
 それも類い稀な美しさを持った女性。
 吉羅を夢中にさせている女性だ。
「…吉羅さんのお知り合いの女性のように完璧な大人の女性ではないかもしれませんが…、それでも少しは大人になったでしょうか」
 香穂子は悲痛な声で言う。
 どうしていつも以上に自分自身が大人の女性であることを拘るのだろうか。
 ひょっとして、あの男のことを好きになってしまったのではないだろうか。
 それは嫌だ。
 こんなことを言う資格などないことは解っているのに、嫌だった。
「…気にしなくて良いんだ。そんなことは…」
「…だけど…気にしてしまいます…。私…」
 香穂子は今にも泣き出しそうな顔で吉羅を見る。
「君は充分大人の女性に見えるようになってきたよ」
「…それは一般論でですか…? それとも、理事長が感じたことですか…? 理事長ご自身は、私が大人の女性になったと思われていますか…?」
 香穂子は思い詰めるように見つめてくる。
 その瞳が愛しくてしょうがなかった。
「…そうだね…私は…」
 吉羅はそこまで言うと香穂子を見つめる。
 車を路肩に止めると、その躰を抱き寄せた。
「…あ…」
 余りにも抱き心地が良い柔らかさに、こころが甘く満たされる。
「…私の答えはこれだ…」
 吉羅は静かに囁くと、香穂子に唇を近付けて行く。
 しっとりと触れるだけのキスをした。
 他の男のものには断じてしたくはなかった。
 吉羅はゆっくりと顔を離すと、香穂子を抱き寄せる。
「…これが私の答えだ。君を子どもだとは一切思ってはいないよ…」
 吉羅は静かに呟くと、香穂子をもう一度抱き寄せた。

 あの時の香穂子の柔らかさを忘れることが出来ない。
 あれから意識をし過ぎているせいか、わざと突き放すような態度を取ってしまう。
 あのパーティの翌日、香穂子はほんのりと頬を染め上げて吉羅のそばにやってきた。
「理事長!」
「何か用なのかな?」
 いつもにも増して、冷たく振る舞ってしまうと、香穂子は唇を噛んで俯いてしまう。
「…いえ…」
 いつも以上に素っ気無い態度を取ってしまい、しまったと思ってももう遅かった。
「…お仕事の邪魔をしてしまったようですね。失礼致します…」
 香穂子は深々と頭を下げると、瞳に涙を沢山溜めて、一瞬だけ吉羅を見た。
 その後、心許無い背中を見せたままで、理事長室から出て行ってしまった。

 香穂子が泣きそうな顔をして立ち去ってからというもの、近付いては来なくなってしまった。
 逢いたい。
 逢って、謝って謝罪をしたい。
 もう、これ以上は香穂子への想いを隠し立てをすることが出来なくなっていた。

 吉羅が会合の後、足早に街を歩いていると、例の青年とばったり逢った。
「こんにちは吉羅さん」
「こんにちは」
 相変わらず幸せそうな顔をしている。
「吉羅さん、今度、経団連の会長令嬢とお見合いをされるという噂を聞きましたが本当ですか?」
 吉羅はどうしてそんなことを言い出すのかと訝しげに思いながら、青年を見た。
「あるにはあったがお断りをした」
「そうですか。この間、日野さんにお会いした時にその話になったんですよ」
 青年は意外だとばかりに眉根を上げる。
 香穂子が誤解をしているのであれば、そこは解かなければならない。
 吉羅が悶々としといると、青年は意外過ぎることを口にした。
「…今度、彼女のご両親を交えてお見合いをすることになりまして」
 お見合い。
 そんなことは一切聞いてはいない。
 吉羅は視界がグラリと揺らぐのを感じた。
「…それは何時かね…?」
「…今度の日曜日です。正式にお見合いをして、彼女に結婚を前提としてお付き合いをして貰うつもりです」
 青年は本当に嬉しそうにしている。
「…彼女はまだ学生だ。一人前のヴァイオリニストではない。君は早急過ぎないか?」
「もちろん、大学を卒業して、ヴァイオリニストとしてある程度軌道が乗るまでは、待つつもりでいます」
 吉羅は苦々しい想いで見つめると、ふと視線を下げた。
「では私はこれで」
「また…」
 吉羅は静かに男を見送りながら、心に熱い炎をたぎらせる。
 香穂子は絶対に渡さない。

 吉羅が学院に戻ると、偶然にも香穂子と遭遇した。
 これは吉兆かもしれない。
「あ…理事長…」
 香穂子は気まずい気分からか、吉羅と目を合わせようとしない。
「…君に話があるんだ。とても大切な話だ…」
 吉羅が思い詰める余りに声を揺らしながら言うと、香穂子は驚いたのか顔を上げた。
「解りました…」
 以前のように屈託なく笑ってはくれないのが切なくてしょうがない。
 香穂子はあくまで強張ってしまっている。
 とんでもなく大切なものをなくしてしまったのかもしれない。
 それが辛い。
「…では、一緒に来てくれないかね?」
「…はい」
 吉羅が方向を示すと、香穂子はとぼとぼと着いてくる。
 その心許無い姿が、誰よりも愛しくてしょうがなかった。
 香穂子を車に乗せて、吉羅はゆっくりと運転を始める。
「少しやつれたかもしれないね」
「…大丈夫です」
 香穂子はいつものようにニコニコ笑ってもくれない。
 それが辛くてたまらない。
「…君の好きなフレンチレストランに行こうか。少し体力をつけると良い」
「だけど…大丈夫なんです、本当に…。だからご用件を手短にお願いしたいんです」
 香穂子には以前のようなフレンドリーさは何処にもない。
 吉羅は背中がゾッとするのを感じた。
 だが、ここは怯んではならないと思う。
「…吉羅理事長…、本当に私…」
「私のお願いなんだよ、日野君」
「…解りました」
 香穂子は少し切ない表情をしてから、何とか受け入れてくれる。
 それは嬉しいが、同時にかなり傷付けてしまったことを思い知らされてしまった。
 吉羅は、香穂子が以前気にいったと言っていたフレンチレストランの駐車場に車を入れると、香穂子をエスコートする。
 ここで失敗してしまえば、香穂子を永遠に失ってしまうのだ。
 吉羅にエスコートされながら、香穂子は戸惑いを見せている。
 解っている。
 冷たくしてしまったことと、見合いの噂があることが影響しているのであろう。
 席に着いて、香穂子は泣きそうな顔をする。
「…吉羅理事長…、私とこんなことをしていても構わないのですか…? ご結婚を前提としたお見合いをされるのではないのですか…?」
「…私は見合いなんてしないよ。きちんと断りを入れた」
「…え…?」
 香穂子は驚いたように目を見開く。
 そんなことは信じられないとばかりに吉羅を見つめた。
「…私は誰とも結婚はしない…」
「…嘘…」
 香穂子は俄かに信じられないように吉羅を見た。
「私は見合いなどはしない。愛しい女性がいるからね」
 吉羅の言葉に、香穂子は衝撃を受けたように固まった。



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