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香穂子は今にも泣き出しそうな顔をしている。 もしそれが切なくてそのような顔をしているのであれば、こんなにも嬉しいことはない。 「…日野君…。…こんなことを今更言っても仕方がないかもしれないが…、私は君を大切に思っている…。だから、君が一人前になるまでは頑張らなければならないと思っていたんだよ…」 吉羅は想いの丈を込めて、香穂子を見つめる。 香穂子はただ揺れる瞳で吉羅を見ている。 「…有り難うございます…」 「…本当に、君が大切に想っているよ…」 香穂子はその瞬間、切なそうな表情で吉羅に笑いかけてきた。 「…有り難うございます。こんなに嬉しいことがあるなんて思ってもみませんでした…。…私…理事長に嫌われてばかりいるのかと思っていました…」 「…日野君…」 「私は…理事長がずっと好きでした…」 香穂子の告白に、吉羅もまた泣いてしまいたくなるほどに嬉しい。 「有り難う。日野君…」 吉羅が言うと、香穂子は切ない笑みを向けた。 「食事は以前と同じもので構わないね?」 「…はい」 香穂子は複雑な笑顔を浮かべながら、頷いた。 食事が運ばれてきて、吉羅はそれを食べながら話を切り出す。 「…日野君…、君は、あの青年と見合いをすると聞いたのだが、本当かね?」 ソフトに言うと、吉羅は香穂子を見た。 「どうしてそれを…?」 「訊いたんだよ。彼からね…」 吉羅はあくまで優しい声で言うと、香穂子を見つめる。 「…私…、理事長が結婚前提でお見合いをするってあちこちで聞いて、諦めなくちゃならないって、思っていたところに、お見合い話があって、それで…、逢うだけなら良いかなって思って、お見舞いをすることにしたんです…」 香穂子はほんのりと苦しげに言うと、吉羅を見た。 「…お見合いは中止にすることは出来るかね…?」 吉羅は香穂子を見つめ、その手を握り締めた。 「…私は…」 香穂子は決断出来ないかのような表情をしている。 「…お見合いはします」 香穂子から出た言葉は意外過ぎるもので、吉羅は言葉を失う。 「…何故…」 吉羅は信じられなくて、眉根を寄せた。 「…断ることが出来ないからです。…それに、私…」 香穂子は吉羅を真直ぐ見つめる。 「…あなたが私を一瞬間の女だと思うかもしれないと、不安でいっぱいなんです。今まで…ずっとあなたが好きで…、あなただけを見ていました。だけどあなたはいつも私を拒絶していたから…、私は…上手く言えないですが、もう少し穏やかな愛を求めたほうが良いのではないかと思っています。いくらあなたを愛しても、結ばれて恋人同士になったとしても、結局は体裁を気にされるのではないのですか?」 香穂子は切ない涙を瞳に滲ませると、吉羅を見た。 「あなたが体裁を気にされる以上は…、私は幸せになんてなれないと思っています」 香穂子は泣き笑いの表情を浮かべると、静かに立ち上がる。 「私は…体裁などを気にしない愛を求めています…。体裁を気にする愛は破綻するような気がします。それは真実の愛ではありません。吉羅さん、あなたのことが好きです。本当に世界で一番好きです。…だけど、あなたが示して下さる愛情は、私が求めているものではありません…。あなたは、私を保護したいと思っているだけだわ…。だから“大切に想っている”としか言えなかったんですよ…」 香穂子は苦しげに呟くと、ただ純粋に吉羅を見つめた。 吉羅は息が苦しくて、胸が鋭いナイフで抉られたような気分になった。 初めて純粋に愛を求めた相手だった。 だからこそより慎重にもなったのだ。 香穂子の気持ちを気付いていたし、それが本当に嬉しくてしょうがないのも事実だった。 しかし、お互いの理事長と生徒という立場から、なかなか踏み込むことが出来なかったことも事実だった。 それは認める。 ふたりの間にある境界線を、香穂子は消したがったのに、吉羅はそれを認めなかった。 あの時は香穂子を守るためだと思っていた。 だが、それは自分の保身にも繋がっていたのかもしれない。 吉羅は臍を噛む思いだった。 香穂子は、涙を浮かべると、静かに立ち上がる。 吉羅は咄嗟に手を取った。 「日野君…!」 香穂子は驚いて息を呑んだが、吉羅はそれでも怯まずに手を強く握り締めた。 「日野君…、君は、いつ、何処で、見合いをするのかね…?」 「…今度の日曜日…、みなとみらいのインターコンチネンタルホテルでです…」 「解った」 吉羅は静かに言うと、同じように立ち上がる。 「…送って行く…。それぐらいはさせてくれないか?」 吉羅の言葉に香穂子は静かに頷いてくれた。 「有り難うございました」 香穂子が家に入るのを見届けてから、吉羅は車を出す。 結局、何も話をしなかった。 香穂子にとっても切ない選択だったのだろう。 まだ愛されている。 それはそこはかとなく解る。 だが、今までにない不安が、吉羅の勘を鈍らせるのもまた事実だ。 吉羅はどうか香穂子が1ミリでも良いから自分をこころから愛していて欲しいと思う。 今まで散々はぐらかせてきたのだから、身勝手だとは思う。 だが、今度は体裁なんかに構ってはいられないと思った。 吉羅は決意をする。 香穂子を誰にも渡しはしない世界で一番愛しい相手なのだから。 香穂子が見合いをする日、吉羅は朝早くにみなとみらいへと向かった。 体裁なんてもう気にはしない。 相手が財界の大物で敵に回そうとしても、そんなことはどうでも良い。 ただ香穂子への愛を貫きたかった。 吉羅はインターコンチネンタルホテル近くの駐車場に愛車を停めると、中に入る。 緊張と不安でいっぱいだ。 いつものように1ミリの隙もないスタイルではない。 ネクタイもしていないし、上質だとはいえジャケットとスラックス、そしてシャツの組み合わせだ。 吉羅は香穂子が見合いをしていそうな場所を捜し始める。 どうか間に合って欲しい。 まさかこの自分が映画「卒業」まがいのことをするとは、思わなかったが。 不意に振り袖姿の香穂子を見つけた。 少しも幸せそうには見えない。 本当に哀しそうな顔をしていた。 吉羅は真直ぐ香穂子の元に近付く。 間近に来ると青年が驚いたように、吉羅を見上げていた。 「香穂子、君はここにいるべきじゃない」 吉羅はそう発すると、香穂子の華奢な手首を握り締めた。 香穂子は息を呑んで吉羅を見上げる。 その表情は本当に美しかった。 「…吉羅さん…」 「君を愛している。君を誰にも渡せない。体裁なんてもうどうでも良いんだ」 吉羅はただストレートに香穂子に想いを伝える。 香穂子は泣きそうになりながら、今までで一番美しい笑顔を浮かべていた。 香穂子は何も言わない。 その沈黙が不安だ。 「吉羅さん、あなたは失礼ではないですか!?」 青年は真っ当なことを言い、憤慨している。 「失礼は承知している…。そんなことは糞くらえだ」 吉羅の言葉に、香穂子が強く手を握り返してきた。 そのまま香穂子は立ち上がると、青年に深々と頭を下げる。 「ごめんなさい。あなたとお見合いを続けることはこれ以上出来ません…!」 香穂子は顔を上げると、吉羅に笑みを浮かべる。 「あなたに着いて行きます」 「ああ」 ふたりでもう一度頭を下げた後、まるで映画のように手を繋いで駆け出した。 本当に幸せでしょうがなかった。 赤レンガ倉庫まで走ってきたところで、ふたりは立ち止まる。 「愛している、香穂子」 息を乱しながら吉羅が呟くと、香穂子も頷く。 「私も愛しています…」 ふたりは笑顔を浮かべた後で、ごく自然に抱き合い唇を重ね合う。 空は澄み渡る蒼。 注ぐ陽の光は春と幸せの訪れを予感させる。 ふたりは今ようやく、幸せへのスタートラインに立った。 |