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理事長室に呼ばれて、ヴァイオリンを弾き終わった時だった。 不意に吉羅のビジネス携帯電話が鳴り響き、香穂子が理事長室から出ようとした時だった。 吉羅が止まるようにとゼスチャーをしたので、香穂子はそのまま入り口前に立っていた。 「そうか。それは残念だね。こちらも無理を承知でお願いをしたからね。ああ。代わりはいるから構わないよ。え? そんなことはないよ。ああ。じゃあ有り難う」 吉羅は携帯電話を切ると、真っ直ぐ香穂子を見つめてきた。 相変わらず感情は余り感じられない。いつも通りの冷たさがあるだけだ。 「日野君、これから何か予定はあるかね?」 「え、予定は特にはありませんが…」 「だったら君で良い。私に少しばかり付き合って貰えないかね」 吉羅は冷たい感情のないまなざしで、ただ香穂子を見ている。 吉羅からの願い事なんて、香穂子に断れるはずがなかった。 誰よりも好きな相手だから。 背伸びをしているのは解ってはいるが、好きにならずにはいられなかった男性だから。 香穂子は呼吸をすると、吉羅に小首を傾げた。 「何か、大切な用事ですか?」 「そうだね。大切な用事だ。ちょっとしたパーティがあって、それには婦人同伴が必要なんだよ。知人に頼んでいたのだが、どうしても用ができてしまい行けなくなってしまったんだ。君に協力を仰ぎたい」 吉羅は少しも困っているようには見えない。 きっと吉羅ならば、どのような女性も喜んで着いていくだろう。例え、今の香穂子のように急に言われたとしても。 「だけど私…、パーティに行けるような恰好していませんし…」 「恰好は私が何とかする。だから君はこのままで着いてきてくれれば構わない」 余りに強引。 だが、香穂子が決して逆らうことが出来ないような引力を持っている。 「…私のような子供でも、大丈夫ですか?」 「君だからお願いをしたい」 吉羅は強い意思を示すようにキッパリと言い放つ。 吉羅の冷酷なのにどこか優しいまなざしを拒否するなんて、今の香穂子には出来ない。 「解りました。お役に立てるなら…」 「有り難う。では早速学院を出なければならないから、準備をして、職員用の駐車場で待っていてくれたまえ」 「はい」 香穂子はヴァイオリンをケースに片付けると、他の荷物を置いている教室へと戻った。 教室で荷物を取ると、香穂子は職員用の駐車場へと向かう。 吉羅が来るまで、何だかそわそわしてしまう。 ドキドキし過ぎて落ち着けないせいか、何度も地面を蹴飛ばしてしまった。 「待たせたね、日野君」 吉羅はトレンチコートを靡かせながら、落ち着いた雰囲気でやって来る。 香穂子のように緊張している色は殆ど見受けられなかった。 吉羅はごく当たり前のように助手席を開けてくれ、香穂子をエスコートしてくれる。 「有り難うございます」 こんなにもスマートに対応されたのは初めてだったから、香穂子は更に緊張してしまった。 小さくなって助手席に乗り込むと、吉羅は直ぐに運転席に腰掛けて車を出す。 「無理を言って申し訳ない。きちんと送るから。後、親御さんにはちゃんと連絡をしておいてくれるかな?」 「はい」 香穂子は返事をしながら、吉羅の華麗過ぎるハンドルさばきをじっと見つめている。 うっとりとしてしまう程に上手くて、香穂子は見惚れていた。 父親や兄のハンドルさばきとは全く違う、綺麗なものだ。 「日野君?」 「あ、す、すみません理事長! つい理事長の運転する姿が綺麗だったので、見てしまいました」 香穂子は魅入られていたとは流石に言えなくて、耳が真っ赤になってしまうぐらいに恥かしかった。 「それは有り難う。私は運転するのが何よりも好きでね。そう言って貰えるのが、何よりも嬉しいよ」 吉羅が落ち着いた声で言うと、フッと僅かに笑みを浮かべた。その笑みがとても魅力的で、香穂子の恋愛ボルテージは更に上がった。 「日野君、連絡は良いのかな?」 「あ、はいっ! しますっ」 香穂子は震える指先でメールを打つと、程なく母親から返信が返ってきた。 香穂子の家は、それほど門限に厳しいわけではないから、午前様にならずに安全で帰って来られれば良いといったスタンスだから、直ぐに母親から「解った」と返信がきた。 学校行事と言ってあることもあり、母親は安心しているようだった。 「学校関係者に送って貰えるので、大丈夫だと母親には伝えました」 吉羅は頷くと、機嫌が良さそうに微笑んだ。 「パーティ会場に行く前に、君に着替えて貰うようにドレスを用意したから」 「有り難うございます」 「こちらこそ申し訳ない。私の勝手な都合に付き合って貰っているのだからね」 吉羅は冷たく言うと、車を静かに駐車場に入れる。 その店の名前を見て、香穂子は喉を詰まらせそうになった。 高級品しか扱っていない有名なセレクトショップだ。 「あ、あのっ! こ、こんなところじゃなくてもっ!」 焦る香穂子など無視をして、吉羅はあくまでクールに車から降りてしまう。 「私の知人がやっているブティックだから。そんなに緊張しなくても大丈夫だ、日野君。それに、ここが君を一番綺麗にしてくれると、私は思うけれどね」 「あ、何だか、分不相応のような」 「いいから来なさい。私が言っていることが正しいと、君も思うはずだよ。綺麗に変身したらね」 吉羅が言うように本当に綺麗になれるだろうか。なれるのならば、これ以上に幸せで素敵なことはないというのに。 香穂子は、吉羅にエスコートをされて、のろのろと車から降りる。 吉羅の後を着いていく間は、期待と不安で緊張していた。 「頼んでいた吉羅だが、直ぐに彼女を変身させてやって欲しい。余り時間がないのでね」 「はい。お待ちしておりました。準備は出来ておりますから」 「すまないね」 直ぐにセレクトショップのスタッフがやって来て、香穂子を瞬く間に綺麗にしていってくれる。 深紅の気品はあるが、何処か艶の秘めたドレスとパンプス。髪は直ぐにアップにされてコサージュをつけられた。 普段はしない化粧を手早くされて、変身するまで三十分もかからなかった。 「はい、これで完成です」 香穂子が驚く間もない程に、再び吉羅の車に乗せられた。 「何だか慌ただしくて申し訳ないね」 「大丈夫です」 香穂子は車窓に見える自分を見るのが恐ろしくて、じっと下を向いていた。 「やっぱり…似合わないですよね…。いくら大人びたドレスを着ても、やっぱり子供っぽいのは変わらないですね…」 香穂子は溜め息を吐いて、躰を小さくさせる。 自信がない余りに、吉羅に答えを乞うようなことを言ってしまったが、答えは全くと言って良い程に返ってはこなかった。 吉羅のことだ。きっと飽きれているのだろう。 いくら綺麗にしても“馬子にも衣装”レベルにすらならないと。 半ば飽きれてしまっているのかもしれない。 香穂子が泣きそうになっていると、車は大きなホテルの駐車場へと吸い込まれていく。 今からでも引き返すことは出来るだろうか。 香穂子がぼんやりと考えていると、吉羅の車は静かに停止した。 ちらりと吉羅の様子を見ると、何処か怒っているように見える。 「…ルージュが少し濃いかもしれないね」 吉羅は低い声で言うと香穂子の顎を持ち上げる。 「え…?」 見つめられた後、そのまま吉羅は香穂子に唇を重ねてきた。 |